イギリス ヨークシャー地方 地図
ヨークシャー (Yorkshire 英[ˈjɔːkʃə]、米[ˈjɔɚkʃiɚ] )は、イングランドの北部にある地方である。一地方としてはイングランドで最大の面積をもち、様々な固有の文化を持っている。 Wheear 'ast tha bin sin' ah saw thee, ah saw thee? - King George VI[153]), 第二次世界大戦期に「ヨーク公(Duke of York)」から国王になったジョージ6世はこのように述べた。ヨーク地方は、古代ローマ人によるブリタニア建国、アングロ・サクソン王国、ヴァイキングの侵入、そしてノルマン人による征服、国教の誕生、薔薇戦争、清教徒革命、産業革命で重要な舞台になり、イングランド史の大きな出来事が起きている。イングランド史のなかで大きな戦いとして知られる「スタンフォード・ブリッジの戦い」(1066年)、「スタンダードの戦い」(1138年)、「ウェイクフィールドの戦い」(1460年)、「タウトンの戦い」(1461年)、「マーストン・ムーアの戦い」(1644年)はヨーク地方で起きた。, ローマ人が紀元前1世紀に進入するより前のイングランドのことは文献史料に欠き、よくわかっていない。それでも農耕に適したイングランド南部は大陸と盛んに交易を行い、多くの言及を残しているが、農耕に向かないイングランド北部はそれもない。各地から青銅器時代か新石器時代に遡るとみられる遺跡が見つかってはいるものの、その意味や役割はほとんど解明されていない[154][155]。, そのなかでもヨーク地方の東部では、大陸のラ・テーヌ文化の影響を受けたと思しきアラス文化(Arras culture)と呼ばれるケルト人グループが知られている。鉄器時代後期に栄えたとみられ、ヨークシャー台地と、当時はまだ湿地帯だった南北の低地一帯に戦車葬(Chariot burial)と呼ばれる墳墓遺跡が分布している。特にウェットワング遺跡(Wetwang Slack)がアラス文化の重要な遺跡として知られている。このあたりは紀元後40年頃の貨幣が見つかっており、ローマ以前のイングランドにおける貨幣流通の北限とされている。彼らは湿地に死体を埋める風習を持っていて、人身御供が行なわれていたのではないかと推測されている[154][155]。, ヨーク地方の北部のスタンウィック(Stanwick)には、イングランド北部を代表するオッピドゥム(ケルトの都市)の遺跡がある。1950年代になって本格的な遺跡調査が行なわれ、紀元前50年から紀元100年頃のものと推定される銅製の馬用の仮面が発見されている[154][155][156]。, 紀元後40年代にローマがイングランドへ侵攻するようになってから、ローマ人による記録によってイングランドの様子が伝えられている。ローマ人がヨーク地方にまで到達したのは紀元後70年代で、その頃のヨーク地方は大部分がブリガンテス族(Brigantes)の縄張りだった。彼らは当時のイングランドのケルト人のなかで最大勢力であり、スタンウィックを中心としてヨーク地方北部から西部を支配していた[157][158][159][160][161]。, 一方、ヨーク地方東部は、ハンバー(Humber)に近いペトアリア(Petuaria)を本拠とするパリシ族(Parisi)の縄張りだった。彼らは、おそらくフランス(ルテティア)のゴール人の一派パリシイ族(Parisii)と関連があると考えられている。(パリシイ族はいまのフランスの首都パリの名のもとになった部族である。)パリシ族はローマに恭順し、ペトアリアはパリシ族の「国都」(ローマ人は「キウィタス」と呼ぶ)となった。これはのちにブロー(Brough)の町となって現代に至る[162][160][157]。, 西暦43年からローマ皇帝クラウディウスがブリタニア遠征(Roman conquest of Britain)を行った。イングランド南部がローマによって征服されると、ヨーク地方を支配していたブリガンテス族はローマ帝国に恭順して属国として生きながらえる道を選んだ。当時のブリガンテス族を率いていたのは女王カルティマンドゥア(Cartimandua)と、その夫ウェヌティウス(Venutius)である。はじめは、ローマ人も、ブリタニアでもっとも戦闘的な部族と知られたブリガンテス族も、この支配体制を受け入れ、カルティマンドゥアはローマ人とうまく渡りをつけてブリガンテス族を治めていた[163][164][165]。, その後、カルティマンドゥアは、夫のウェヌティウスの小姓[注 27]だったウェロカトゥス(Vellocatus)と通じるようになり、ウェヌティウスを退けてウェロカトゥスを新たな夫に迎えた。ウェヌティウスはかねがねローマの属国となることを不満に思っており、これを機に部族を煽動して女王とローマ人に対する反乱を起こした[165][157]。, 反乱は一度は鎮圧されたが、二度めの蜂起でウェヌティウスは女王の座から追い落とし、自ら部族の王となった。しかしまもなくローマ軍のケリアリス将軍がこれを討伐し、西暦71年にウェヌティウスも敗走した。これによってヨーク地方全域がローマの支配下になった。その後、ブリガンテス族は中心地(国都キウィタス)をアルボロ(Aldborough)にあるIsurium Brigantumに移した。古代ローマのプトレマイオスは、著書『地理学』のなかで、ブリガンテス族の「ポリス」9箇所のうち、6箇所が当時のヨーク地方に属していた、と記している[159][167][168][157]。, ローマ人はブリタニア全土を二分割し、南部に上ブリタニア州(Britannia Superior、州都はロンディニウム(現在のロンドン))、北部に下ブリタニア州(Britannia Inferior)をおいて城塞都市エボラクム(Eboracum)をその州都とした。エボラクムは現在のヨーク市の古名である[169][170]。, 下ブリタニア州は広大なローマ帝国のなかで最も辺境の地で、かつ最後に征服された地域であり、北の「蛮族」カレドニア人に備えるための軍団がおかれていた。この軍事力を背景に、ローマ時代のエボラクムでは、古代ローマ史上の重要な出来事が時々起きている。ローマ皇帝セウェルス(在位193-211年)は、没する前の最後の2年間をエボラクムで過ごし、ローマ帝国を治めた[171]。コンスタンティウス1世は360年にヨーク地方を訪れ、そこで没している。その息子で、キリスト教をローマの国教と定めたことで知られるコンスタンティヌス1世は、エボラクムで即位を宣言した[172][173][174]。, ローマ人は主要拠点を結ぶ石畳の道を整備した。ヨーク地方では、東回りのアーミン街道(アーミン・ストリート(Ermine Street))がエボラクラムを中継地として南北を縦貫していた。アーミン街道は途中でハンバーを船で渡る必要があり、季節によっては荒天で長く足止めされることがあるため、迂回路のローマ古道(ローマン・リッジ(Roman Ridge))も敷かれていた。この街道は北方へ伸び、カタラクトリウム(現在のカタリック(Catterick))で分岐してカレドニア(現在のスコットランド)へ向かっている。ローマ人が築いた街道は長きに渡り、北イングランドの大動脈になった。このほかローマ人は、ヨーク地方の北東海岸(ノース・ヨーク・ムーアの沿岸部)に信号所を整備している[175][176]。, ゲルマン民族の大移動に発するローマ帝国が衰退し、ローマは辺境を守る兵力を維持できなくなっていった。5世紀のはじめ頃、とうとうローマ人は去り、ローマによるブリタニア支配は終焉を迎えた[171][177]。, ローマが去ったあとのイングランドは七王国時代と呼ばれる戦国期を迎えた。しかしこの時期のことは文献史料に乏しく、詳しくはわかっていない。はじめ、ヨーク地方にはケルト人の小王国がいくつか興った。ヨーク市近辺のエブラク国(Kingdom of Ebrauc)や、西ヨーク地方(West Yorkshire)のエルメット王国( Kingdom of Elmet)が有名である[178][179][177]。, ローマ人と入れ替わるようにイングランドに侵入してきたのがアングロ・サクソン人と呼ばれる人々である[注 28]。彼らがイングランド各地に「七王国」を建てていった[177]。ヨーク地方では560年にアングル人のエリ王(Ælla of DeiraないしÆthelric of Deira)がデイラ王国(Deira)を建国した。デイラ王国の版図はおおむね南はハンバー、北はティーズ川までの地域で、後のヨーク地方にほぼ相当する。デイラ王国は、さらに北隣にできたバーニシア王国(Bernicia)と争いを繰り返したが、7世紀に入るとバーニシア王とデイラ王女の結婚によって王国が統合され、ノーサンブリア王国となった[180][52]。この時期に「エボラクム(Eboracum)」はアングロサクソン風の表記で「エオフォヴィック(Eoforwīc、Eoforwic)」へと転訛していった。, ケルト人のエルメット王国は、アングル人のノーサンブリア王国にもしばらく屈しなかった。しかし7世紀のはじめノーサンブリア王国のエドウィン王(Edwin of Northumbria)は、エルメット王国からカラタクス王(Caratacus,Ceretic of Elmet)を駆逐し、エルメット王国を滅ぼして領地を併合した。これによってノーサンブリア王国は、西はアイルランド海から東の北海まで、北はエディンバラから南はハラム周辺(Hallamshire、現在のシェフィールド一帯)までを版図を広げた[181]エドウィン王時代のノーサンブリア王国は最盛期を迎え、ヨークを王都として、イングランド南部のウェセックスまで影響下に置いた[182]。, 9世紀に入ると、いわゆるヴァイキングの襲来がノーサンブリア王国を脅かすようになった。ヴァイキングは主にヨーロッパ北部にいたデーン人(ノルマン人の一派)からなり[注 29]、さまざまな族長が小集団を率いて入れ替わり立ち替わりブリテン島を襲った。ノーサンブリア王国の人々はヴァイキングを「大異教徒軍」(Great Heathen Army)と呼んだ[183][184]。, ヴァイキングたちはブリテン島の海岸を襲っては略奪をして帰るということを繰り返していたが、9世紀後半になると襲来してそのまま居着くようになっていった。その頃ノーサンブリア王国内では権力争いがあり、ヴァイキングたちはこれに乗じて王国の有力者を倒し、傀儡の王エグバート(Ecgberht I of Northumbria)を立てるようになった。869年からは、ヴァイキングたちはノーサンブリア王国へ本格的な侵略を始めた。これを率いた者としてデーン人のハーフダン・ラグナルソン(Halfdan Ragnarsson,?-877)がよく知られている。ラグナルソン率いるデーン人ヴァイキングは「エオフォヴィック(Eoforwīc、Eoforwic)」(ヨークの古名)を奪い取り、デーン人風の表記である「ヨルヴィック(Jórvík)」へと改名した。彼らはデーン人王国(ヨルヴィック王国)を作り[注 30]、ヨルヴィックを王都とした。ヨルヴィック王国の勢力はノーサンブリア地域の南部一帯に及び、その版図は大雑把に言ってヨーク地方の境界に相当する[185][186][187]。, デーン人たちはさらに勢力圏を拡大すべく、イングランド中を荒らしまわった。彼らの領地は「デーンロウ」(デーン人の法律が用いられる地)と呼ばれた。最盛期のデーンロウの範囲はおおよそイングランド全域に相当する。ヨルヴィック王国は広大な交易路を築いて繁栄し、ブリテン諸島や北欧のみならず、地中海世界や中東とも交易を行った[188][189]。, 10世紀になると、ヨルヴィック王国も勢力が弱まった。この時期の王として有名なのがエイリーク血斧王(Eric Bloodaxe,885-954)である。エイリーク血斧王はデーン人ではなくノルウェー人であり、もとはノルウェー王だったが、10世紀中頃にヨルヴィック王国の王となった。ノルウェー人である血斧王は、デーン人を恐怖政治で統治した。その頃、南ではアングル人によるウェセックス王国が優勢になり、北方にまでその影響力を及ぼすようになった。ウェセックス王はヨルヴィック王国の住民に服属を要求したが、一部のデーン人住民たちは血斧王による恐怖政治を嫌い、すんなりとアングル人に従うことを承諾した[179][186]。, こうして、ノーサンブリア王国を含めてヨーク地方はウェセックス王国に下り、属国となった。ウェッセックスの王は「イングランドの王」を名乗るようになった。ウェセックス王国は、属国の支配地を、属国の国王が治める王国としてではなく、貴族の領地として分割し一定の自治を認めた。その際、ヨーク地方ではノルウェー人の伝統的なやり方でヨーク地方を治めることを認め、法を定めることを含めて貴族の自治を許した[190]。, 11世紀までに、「イングランド王」がイングランドのおおよそを支配下に置くようになっていたが、1066年にこれがノルマン人によって簒奪されることになった[177]。, 1066年にエドワード懺悔王が没すると、ハロルド2世が後継者として即位した。しかし、彼の兄弟であるトスティグとノルウェー王のハーラル3世が、イングランド王位を狙ってイングランド北部に侵攻した。これらの軍勢はヨーク市の南で起きたファルフォードの戦い(Battle of Fulford)で、地元ヨークの貴族連合軍を打ち負かしてしまった。そこでハロルド2世は軍勢を率いて北へ向かい、スタンフォード・ブリッジの戦いでトスティグとハーラル3世を破って敗死させた[191][43]。, だがその直後、今度はノルマンディー公ギヨーム2世が王位継承権を主張してイングランド南部に上陸、ハロルド2世は南部へ急行してこれを迎え撃ったが、ヘイスティングズの戦いに敗れて死んだ。この結果、ギヨーム2世はイングランド王ウィリアム1世(征服王ウィリアム)として戴冠し、イングランド全域の征服に乗り出した[192][193]。, 北イングランドの住民はノルマン人の侵略者に抵抗した。1068年にはノーサンブリアとマーシアの貴族がスコットランド王マルカム3世を担いで反乱を起こし、ウィリアム1世は2度にわたってヨークを攻め落とした[192]。しかし北イングランドの人々は、翌1069年に今度はデンマーク王スウェイン・エルトリットサン(Sweyn II of Denmark)を封じてヨーク奪還を試みた。スコットランドのマルカム3世もこれに呼応し、ウィリアム1世は苦戦した。ウィリアム1世はデンマーク王を買収して引き返させることに成功すると、ヨークを焼き払った。さらにウィリアム1世は北イングランドを徹底的に破壊することにした。これはイギリス史で「Harrying of the North(北部の蹂躙)」と呼ばれる大殺戮となり、北イングランドは荒廃することになった[194]。, ウィリアム1世に命によって、1069年の冬、ヨークからダラムに至るまで、多くの村が焼き討ちされ、住民は撫で斬りにされた。作物、家畜、農機具に至るまで火をかけられて焼き捨てられた。翌1070年の春までに、北部では数えきれないほどの農民が寒さと飢えで死んだ。歴史家のオーデリック・ヴィタリス(Orderic Vitalis)は、北部では10万人以上が餓死したと推計している[195][196][197][194]。, そのあと、新たなノルマン人領主たちがヨーク地方に入り、新しい町を次々と建設した。たとえば、バーンズリー、ドンカスター、ハル、リーズ、スカーブラ、シェフィールドなどである。ノルマン・コンクエスト以前からあった町で生き残ったのは、ブリッドリントン(Bridlington)、ポクリントン(Pocklington)、それになんとか再建されたヨークぐらいだった[198]。ヨーク地方は彼らによって、北のスコットランドからの侵略に備える防衛基地となっていった。, ヨーク地方の人口はその後急激に伸びたが、1315年から1322年にかけてヨーロッパ全土を襲った大飢饉では、この地方も被害を蒙った。また、黒死病の禍は1349年にヨーク地方にも達し、人口の3分の1が失われた[198]。, イングランドでは2つの異なるルートでキリスト教が伝来した。アイルランド経由のキリスト教と、ローマ経由のカトリックである。このうちアイルランド経由のキリスト教はケルト文化を色濃く反映していて異教的要素ももち、カトリックとは切り離されて発達した独自のキリスト教だった。ローマのカトリックが支配体制と結びついて少なからず世俗化していたのに対し、ケルトのキリスト教は世俗からの隠遁を希求し、孤立した修道院にひきこもっての規律と信仰生活を善しとしていた。こうした修道院は孤立を希求したので、各修道院相互のつながりはなく、ローマのカトリックのように教会組織化されたものではなかった[199][200]。, アングロ・サクソン人はローマのキリスト教に帰依し、国内支配に利用した。彼らはローマから司教を招聘し、国内のカトリック化を進めようとしたが、これは旧来の土着のキリスト教との衝突を招いた。663年に、当時最も勢力が大きかったノーサンブリア王国オスウィユ王(Oswiu)により、両者の会談がヨーク地方のウィットビー修道院(Whitby Abbey)で行なわれた(ウィットビー宗教会議)。この会議によってイングランドのキリスト教のあり方が決定づけられた。ノーサンブリアはイングランドでもカトリック文化が最も進んだ地域となっており、ウィットビー修道院はノーザンブリア女王が設立したものだった。ヨークは知識階級が集まる場所だった。ヨーク大聖堂の原型もこの頃すでに建てられ、大司教区(Archbishop of York)が設置されていた[201][202][43]。, ヴァイキングの侵略によって各地の教会や修道院は一時的に荒廃した。特にイングランド北部でそれが顕著だった。ヴァイキング国家が成立して安定をみると、南部では修道院が盛んに再建された。ヴァイキングたちは元来キリスト教徒ではなかったが、外国人としてイングランドを治める上ではキリスト教が有用であることがわかると、キリスト教化されていった。この時期のイングランドでは、王たちはキリスト教を通して国を支配することができた。しかし11世紀にグレゴリウス7世が改革を行って、ローマ教皇が国王に優越すると主張するようになると、イングランドでは王とキリスト教会勢力が対立するようになった[203]。, ノルマン人貴族の征服王ウィリアムは、ローマ教会に従わないサクソン勢力を討つという大義名分を得て、ローマ教会の力を背景にイングランドの支配をすすめることができた。その過程で、反ローマ的だった土着キリスト教を刷新するため、古い修道院(abbey)や修道所(priory)を破却し、宗教指導者層を息がかかったローマ教会の司教にすげ替えた。その一方で「サクソン王朝の後継者」を装うために新しい修道院を建てた。ヨーク地方一円でも、この時期に多くの古い修道院が遺棄され、新しい修道院が建てられている。こうした教会勢力はウィリアムの王朝を外敵から守るようになった。12世紀のはじめには、スコットランド人の侵入に対してヨーク大司教のサースタン(Thurstan)が民兵を率いて「イングランド王国軍」を名乗り、数で勝るスコットランド軍をノーザラトン(Northallerton)で打ち負かした。これはイングランド王国とスコットランド王国のあいだで起こった本格的な戦いとしては最初のものだった(軍旗スタンダードの戦い(Battle of the Standard))[204][205][206][207]。, しかしやがて、イングランド王はローマ教会と対立するようになっていった。イングランドの庶民には古くからの非ローマ的なキリスト教が受け継がれており、王はローマ教会からの独立に傾倒していった。16世紀のヘンリー8世はローマ教皇と決別し、1536年に修道院解散[208](Dissolution of the Monasteries)を断行した [注 31]。このときヨーク地方でも多くの修道院が遺棄された。かつて宗教会議を行ったウィットビー修道院(Whitby Abbey)もこの時に破却された。これらの修道院跡は遺跡となって、今ではヨーク地方の観光名所になっている。世界遺産のファウンテンズ修道院跡もこの時期に放棄されたものである[209][202][210][211]。, ヘンリー8世は国民にカトリックからイングランド国教に改宗するよう強いたが、カトリック住民の中にはこれを拒んで一揆を起こすものも現れた。なかでもヨーク地方に端を発する「恩寵の巡礼(Pilgrimage of Grace)」と呼ばれる抵抗運動がよく知られている。エリザベス1世の時代になると、彼らは捕らえられて処刑されるようになった。そうしたカトリック信者のなかに、ヨークの女性マーガレット・クリスロー(Margaret Clitherow)がいる。マーガレットは後世に殉教者として列聖された[212]。, 15世紀にイングランドでは薔薇戦争が起きた。この内乱はヨーク地方から始まった。薔薇戦争では「ヨーク家」と「ランカスター家」が争ったので、現在でもスポーツなどでヨーク地方とランカスター地方のチームが対戦するときに「薔薇戦争」という表現が用いられる。しかし薔薇戦争はヨーク地方・ランカスター地方が争ったわけではなく、イングランド全土が戦地になっている。実際のところ、ヨークはランカスター家の主要拠点であり、ヨーク家の本拠はロンドンにあった。ヨーク党のシンボルとされる「ヨークの白薔薇」の紋章は1960年代につくられたヨーク地方の旗(Flags and symbols of Yorkshire)や、イギリス陸軍のヨークシャー連隊旗(Yorkshire Regiment)にも採用されている[13][43]。, 薔薇戦争は「ヨーク公」を首班とするヨーク党と、「ランカスター公」を首班とするランカスター党の間で争われたものであり、ヨーク地方とランカスター地方が争ったわけではない[注 32]。「ヨーク公」「ランカスター公」というのはイングランド王族の称号である。, ヨーク地方では、ヴァイキングがヨルヴィック王国を立てていた[213]。954年に当時のヨルヴィック王・エイリーク血斧王(Eric Bloodaxe)がイングランド王国との合戦で敗死して王国が滅びると[214]、イングランドはヨルヴィックの王号を廃して新たに「ヨーク伯爵(Earl of York)」という貴族号を設けた[215]。ヨーク伯爵領はおおむねヨーク地方全域となっており、しばしば「ヨークシャー伯爵」(Earl of Yorkshire)とも表現された[215]。しかしこの貴族号は、12世紀半ばのいわゆる「無政府時代」にヘンリー2世によって廃された[216][217][43]。, 14世紀の王、プランタジネット王家のエドワード3世には、長子エドワード黒太子を筆頭に多くの子がいた。ところが本来は王位を継ぐはずのエドワード黒太子は父エドワード3世王よりも早死にしてしまい、エドワード黒太子の子リチャード2世を後継者とした。その一方で、エドワード3世はエドワード黒太子の弟たちに「ランカスター公」、「ヨーク公」の爵位を授けた。この「ヨーク公」は、廃止されていた「ヨーク伯」を格上げして復活させたものである[218][43]。, 2代ランカスター公はリチャード2世に背いて国外へ追放されるが、1399年にヨーク地方のホルダネス地域(Holderness)にあったレイブンスパーンの港町(Ravenspurn)に舞い戻る[注 33]。そして北イングランド諸侯の協力を得て、リチャード2世を囚え、南ヨーク地方のポンテフラクト城に幽閉して死なせてしまう[注 34]。ランカスター公は新たなイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が開かれた。はじめはランカスター家の王をヨーク家が補佐していたが、ランカスター家とヨーク家は次第に反目するようになっていった[219][218][220][221][43]。, 1455年に、とうとう両家はイングランドの王位をめぐって争いになり、3代ヨーク公が反乱を起こして薔薇戦争と呼ばれる内戦に発展した。この「戦争」は「ヨーク家(ヨーク党)」と「ランカスター家(ランカスター党)」の間で争われたが、ヨーク地方(ヨークシャー)とランカスター地方(ランカシャー)に分かれて争ったわけではない[219]。, ヨーク地方では、を領有していたネヴィル家(House of Neville)がヨーク家の味方をした。ネヴィル家はヨーク家と縁戚関係にあり、シェリフハットン(Sheriff Hutton)とミドルハム(Middleham)など北部に広大な領地をもち、ミドルハム城を本拠にしていた。なかでも16代ウォリック伯ネヴィルは「キングメーカー」と呼ばれた。ヨーク家最後の王となるリチャード3世も生涯の大部分をミドルハムで過ごしている[222][223][224][217][225]。, このほか、ボルトン(Bolton)のスクロープ家(Scropes)、ダンビー(Danby)とスネイプ(Snape)のラティマー家(Latimers)、サースク(Thirsk)とバートン(Burton in Lonsdale)のモーブレー家がヨーク家に与した[225][226][219][217]。, 一方、ヨーク地方でランカスター家の側についたのは、スキップトン(Skipton)のクリフォード家(Cliffords)、ヘルムスレー(Helmsley)のロス家(Ros)、ヘンダースケルフ(Henderskelfe)のグレイストック家(Greystock) [注 35]、ホルダネス(Holderness)のスタフォード家(Stafford)、シェフィールドのタルボット家(Talbot)などである[219][227][228]。, 薔薇戦争ではイングランドの各地で戦い行なわれた。ヨーク地方でもいくつか代表的な戦闘があり、ウェイクフィールドの戦いやタウトンの戦いなどが知られている。サンダル城の目前で起きたウェイクフィールドの戦いでは、反乱の首謀者3代ヨーク公が首を取られている。荒れ狂う吹雪の中で起きたタウトンの戦いでは2万8000人が殺され、イングランド史上最も死者の多い合戦だったとして知られている[219][217][229][43]。, ボズワースの戦いで戦死したリチャード3世はヨーク朝から出た最後のイングランド王となった。勝者のランカスター党のヘンリー・テューダーはヘンリー7世として戴冠し、ヨーク王女エリザベス(エドワード4世の娘)を娶って両家の争いに終止符を打った[230]。このとき、ヨーク家の紋章だった白薔薇とランカスター家の紋章だった赤薔薇が組み合わされて、有名なテューダー・ローズの紋章が作られた[231][219][232][233]。, 現在は、「ランカスター公」はイングランド国王が襲名することになっており、「ヨーク公(ヨーク大公、デューク・オブ・ヨーク)」は王家の次男が襲名することになっている。(長男は「ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)」を襲名する。)[234][209], スポーツなどの分野では、ヨーク地方(ヨークシャー)のチームとランカスター地方(ランカシャー)のチームが対戦する場合にしばしば「薔薇戦争」に喩えられる。たとえばクリケット(County cricket)では、ヨーク州のチームとランカシャーのチームが対戦するときに「ローゼズマッチ(Roses Match)」と表現する。サッカーでは、マンチェスター・ユナイテッドとリーズ・ユナイテッドはそれぞれユニフォームのホームカラーが赤と白であり、両者の対戦を「薔薇戦争マッチ("War of the Roses" games)」と称する[235][236][237]。, 17世紀のイギリスでは、農村での貧富格差の拡大、対外戦争による財政悪化、プロテスタントとカトリックの対立、国王の失政などから、王党派と議会派が対立を深めていった。それがとうとうヨーク地方での軍事衝突となり、これがイングランド内戦、清教徒革命へと発展していった。, ヨーク地方でも、王党派と議会派は真っ二つに割れた。1642年7月、ヨーク地方南部のハルでとうとう両者は武力衝突を起こした。ハルはもともと王党派よりで、城内に軍事物資を蓄えており、それを手にするため国王であるチャールズ1世みずからヨークかたら軍を率いてきた。しかし議会派の支持者が門を閉じ、王の入城を拒んだ。これを突破しようとして両者のあいだで戦闘が始まり(ハル包囲戦(Siege of Hull))、これが契機となってイングランド内戦に突入した[238][239][240][241]。, ヨーク地方北部は特に強固な王党派に属しており、王党派はヨーク市を拠点として、リーズやウェイクフィールドを攻め落としていった。これらの諸都市は短い期間に奪ったり奪い返したりが行われたが、アドウォルトン・ムーアの戦いでの王党派の勝利によって、ヨーク地方のほぼ全域は王党派の勢力下におかれた。ハルだけは例外で、議会派の砦だった[240][241][242]。, 議会派はハルを拠点として反撃に転じ、1644年春にはスコットランド勢を引き入れてヨークを攻めた(ヨーク包囲戦(Siege of York))。ヨークは3ヶ月持ちこたえたが、7月のマーストン・ムーアの戦いで議会派が大勝すると、ヨークも陥落した。以後、形成は逆転し、議会派はイングランドの北部諸州を掌握していった。ヨーク地方では、東部海岸にあるスカボロー城(Scarborough Castle)が王党派の最後の砦となった。ここは難攻不落の要塞で、王党派は5ヶ月に渡る防衛戦(スカボロー城大包囲戦(Great Siege of Scarborough Castle))を持ちこたえたが、1645年夏にとうとう陥落した[243][243][244][245][246]。, マーストン・ムーアの戦いで議会派を勝利に導いたのが、ヨーク地方出身のトーマス・フェアファクスとオリバー・クロムウェルである。クロムウェルはこのあとの革命を主導し、チャールズ1世を処刑した。クロムウェルの死後、王政復古によってチャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位すると、クロムウェルの死体は墓から掘り出され、反逆者として晒し物にされた。後に、その遺骸は家族によってひっそりとヨークシャー台地ウォルドにあるコックスウォルド(Coxwold)村の修道院(Newburgh Priory)に運ばれて葬られたと伝えられている[43]。, 古代、ローマ人がイングランドに羊と毛織物を持ち込んだ。毛織物づくりはアングロ・サクソン人の侵入によって一度は滅びかけたが、ノルマン人がイングランドを征服すると再び盛んになり、中世にはイングランドの代表的な製品になっていった。ヨーク地方南西部では、ペナイン山脈を東西に横断する交通路として古くから小さな市場町が点在しており、家内工業で毛織物が作られていた。毛織物は大陸へ輸出されてイングランドに利潤をもたらしたが、14世紀になると黒死病による人口減で需要が落ち込み、打撃を受けた[107][247]。, しかしその間、一部の地域では毛織物の技術改良や専門化がすすみ、競争力を高めていった。ヨーク地方南西部のペナイン山脈の裾野一帯もそうした地域にあたる。ペナイン山脈から湧き出る水は、軟水なので羊毛加工に欠かせない洗毛(scouring)や染色に適していたうえ、水量が豊富なので紡績のための水車も利用されて工業化(マニュファクチュア)されていった。ペナイン山脈からは漂白に用いるソーダも産した。ここで生産された毛織物は水運によって販路を拡大した[101][107][248]。, こうした羊毛産業で16世紀に発展していったのが「羊毛で出来た町(a city built on wool)[106]」と呼ばれるリーズである。ほかにもウェイクフィールド、ブラッドフォード、ハリファクス、ハダースフィールド、シェフィールドといった町が羊毛産業で発展した。ハルは対外輸出港として栄えた[106][102][107]。, 16世紀の羊毛産業の隆盛を象徴するのが「ハリファックスの断頭台」(ギロチン)である。毛織物は最終工程で真水洗いを行い、それを板に乗せて乾燥させる。ハリファックスは以前は山間の小さな村に過ぎなかったが、16世紀に毛織物産業によって急速に発展した。ハリファックスの村では、いたるところで毛織物の乾燥が行なわれていたが、毛織物は非常に高価で売れるので、乾燥中の毛織物の盗難が後を絶たなかった。村の経済を圧迫するほどにまで盗難犯罪が増えたために、1541年に村では王の許可を得て丘の上に断頭台を設置、毛織物泥棒には過酷な処刑が待ち受けていると宣伝したのである。これが文献史料でのハリファックスの初出となった[249][43]。, 17世紀に入ると大航海時代によって絹織物がヨーロッパに普及するとともに、対外戦争で大陸との貿易が落ち込み、イングランドの毛織物産業は打撃を受けた。17世紀半ばの清教徒革命でイングランドのトップに立ったクロムウェルは航海条例を定めて毛織物の水運を加速させ、ヨーク地方の毛織物産業はさらに発展した[106][102][107]。, これを水路開発がさらに後押しした。1690年にエア=カルダー水路(Aire and Calder Navigation)が完成してリーズやウェイクフィールドから北海への輸送が大いに発展し、1700年にはイングランドで最長となるリーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)が開通、アイリッシュ海に面するリヴァプール港とも接続された。これによって輸送コストが大きく削減されることになり、競争力の高まったヨーク地方の毛織物製品は販路を世界中へ一気に拡大、ヨーロッパのみならず、オーストラリアやアメリカへも輸出された。19世紀の鉄道の開通によって発展にさらに拍車がかかり、ヨーク地方はイギリス最大の羊毛工業地帯となった[102][101][106][107][250]。, この時代のヨーク地方の人物で、繊維工業に産業革命をもたらした人物としてベンジャミン・ゴット(1762-1840)が知られている。ゴットは蒸気機関や鉄鋼を採り入れてリーズに世界最大の羊毛工場を建設し、羊毛産業に革新をもたらした。1799年からはリーズ市長も務めている[106]。ゴットのもと19世紀のリーズは羊毛産業で最盛期を迎えるが、20世紀に入ると紡績産業は淘汰された[250]。, 産業革命にともなう急速な機械化は、労働者階級の反発を招くこともあった。リーズとブラッドフォードの間にあるクレックヒートン(Cleckheaton)という町では、新しい毛布製造機械の導入によって自分たちの職が奪われると考えた毛織物産業の労働者200名が暴動を起こし、次々と工場を襲って機械を破壊して回った。この運動は靴下製造機械を2台破壊したネッド・ラッドの名からラッダイト運動と呼ばれている。当時、工場の機械を破壊すると死刑と定められており、多くの者がヨークの裁判所で死罪を言い渡されて死んだ[43]。, ヨーク地方は古代から錫、亜鉛、石炭などの鉱産資源で知られていて、それがローマ人のブリタニア遠征の目的の一つだった[45][175]。中世にも採掘が行われたとする史料もあり、16世紀には炭鉱が営まれていたが、石炭産業が主役に躍り出るのは18世紀以降である。蒸気機関の登場、運河の整備、大資本の集中、安価で大量の労働力などによって産業革命が起こり、19世紀にはウェイクフィールド、バーンズリー、ハダースフィールド、シェフィールドなどの地域が「ヨークシャー炭田」(South Yorkshire Coalfield)として栄えた。交通網もさらに整備され、鉄道も広がってゆき、ヨーク地方内の遠隔地同士を繋ぐようになった。南部ではシェフィールド=南ヨーク水路(Sheffield and South Yorkshire Navigation)によってドン川とウーズ川・トレント川などが接続された[247]。, シェフィールドとロザラムなどは鉄鋼業が栄えた。なかでもシェフィールドは「刃物の町」として世界的に知られている。シェフィールドはもともと15世紀に小さな市場町から刃物生産で有名になり、王室御用達となった。これが産業革命期に大きく発展したものである。るつぼ鋼(Crucible steel)、ステンレス鋼はシェフィールドで開発されたものである[251][252][253][254][43]。, 18世紀のシェフィールドの鉄鋼業者としてベンジャミン・ハンツマン(1704-1776)が有名である。19世紀に入ると、鋼鉄の精錬法を発明したヘンリー・ベッセマー(1813-1898)が現れた。ベッセマーはヨーク地方生まれではないが、その発明を実用化しようという者がいなかったので、シェフィールドの土地を買って製鋼所を創めた。これが大成功し、鋼鉄の製法がイングランド全土へ広がっていき、鉄道、造船業、建築が大きく進歩した。一方で、産業の発展による都市部の過密化は生活環境の悪化をもたらし、1832年や1848年のコレラの流行となって現れた。こうしたことからこの地方では、19世紀の終わりに近代的な上下水道が発達した。また、工場で働く大量の労働者たちの間では、しばしばトラブルが起きた。労働組合側の労働者が組合加入者を増やすために、非加入者の家を爆破したり放火したりした。こうした暴力事件から労働組合法が確立されていった[251][252][253][254][43]。, イングランドでは、18世紀後半の「運河狂時代」、19世紀の鉄道狂時代によって、ヨーク地方でも運河網、鉄道網が急速に発展し、舗装された街道(turnpike)の整備が始まった[152][255][256]。, 1825年9月27日にヨーク市近郊のダーリントンと、北ヨーク地方のストックトン[注 36]を結ぶストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業した。これは蒸気機関車による「世界最初の鉄道路線[注 37]」であり、ヨークは「鉄道発祥の地」として知られている[257][43]。, その後、ノース・イースト鉄道(North Eastern Railway)、イースト・コースト本線(East Coast Main Line)などがヨーク地方を経由してイングランドを南北に縦貫し、南ヨーク地方の低地には鉄道が網目のように張り巡らされた。鉄道の発祥の地であることから、ヨークには世界最大規模のイギリス国立鉄道博物館がある[152][255][256][257]。, 19世紀にはハロゲイトやスカーブラが鉱泉で人気になり、治療に効果があると信じて鉱泉を飲む人々が集まり栄えるようになった[258][259]。, ヨーク地方を通る道路で一番目立つのは「グレート・ノース・ロード」と呼ばれるA1号線である[260]。この幹線道路はヨーク地方の中央を南北に貫いており、ロンドンとエジンバラを結ぶ最も重要な道路である[261]。ほかの主要道では、A19号線(A19 road)がA1号線よりも東側を走っており、南のドンカスターから北部のニューカッスルを結んでいる[262]。, 高速M1号線はロンドンや南イングランドとヨーク地方を結んでいる。1999年にリーズの東側で約8マイル(約13km)の延伸工事があり、A1号線と接続された[263]。高速M62号線(M62 motorway)はヨーク地方を東西に横断して、ハルからマンチェスターやマージーサイドと繋いでいる[264]。, ロンドンとスコットランドを結ぶイースト・コースト本線は、ヨーク地方ではおおむねA1号線と並走している。ペナイン横断急行(First TransPennine Express)はハルからリーズを経由してリヴァプールの間を走っている[265][266]。, また、ピカリングとウィットビーを結んで雄大な自然の中を走るノース・ヨークシャー・ムーアズ鉄道(North Yorkshire Moors Railway)は人気の観光地である。もともとは1835年開業の馬車鉄道だったが、1865年に蒸気機関車による運行になったもので、現在は観光鉄道として運行されている[267][152][255]。, なかでも最高標高地点にあるゴースランド駅(Goathland railway station)は映画『ハリー・ポッター』シリーズの「ホグズミード駅」の撮影地になっている[152][255][256][267]。, ヨーク地方は鉄道の発祥の地であり、世界最大規模のイギリス国立鉄道博物館があるほか、鉄道に関する多数の博物館や、鉄道に関する史跡が残されている[152][255][256][257][268]。キースリーからハワースを通ってオクセンホープまで、保存鉄道であるキースリー・アンド・ワース・ヴァレー鉄道が走っている[269]。, 鉄道網が発展する前は、ウィットビーとハルの港が物資の輸送に重要な役割を担っていた。ウィットビーは古くからの伝統的な港町で、海洋探検家のクック船長の出身地であり、ここからエンデバーで太平洋へ出港したことでも知られている。ハルからはオランダのロッテルダムやベルギーのゼーブルージュ(Port of Bruges-Zeebrugge)へP&Oフェリー(P&O Ferries)の定期航路が就航している[270][271][272][273][274]。, リーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)はイングランド最長の運河である。このほかエア=カルダー水路(Aire and Calder Navigation)、シェフィールド=南ヨークシャー水路(Sheffield and South Yorkshire Navigation)等によって主要都市が連結されている。これらの運河による水運はかつてイギリス全体の運河水運の5割に達し、ヨーク地方の経済的繁栄を支えたが、鉄道網の発達によってその使命を終えた。現在は運送には用いられておらず、観光客向けの船が運行されている[275][73]。, 第二次世界大戦中、ヨーク地方は王立空軍の爆撃隊の重要な拠点となり、戦争を担う最前線となった[276]。, リーズ・ブラッドフォード空港(Leeds Bradford Airport)は1931年に民生用の飛行場として開設されたが、1936年から空軍の第609飛行隊(No. "Table 8a Mid-2011 Population Estimates: Selected age groups for local authorities in England and Wales; estimated resident population;". 『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 4 』(12・13世紀 1066-1280年頃),バーバラ・ハーヴェー・編,鶴島博和・監修,古武憲司・監訳,慶應義塾大学出版会,2012. - Bernard Ingham[3]), 「ヨークシャー」という地方概念が確立されたのは9世紀に遡り、単一の地方としては、イギリスで最大の面積をもつ[4][5]。面積はおおよそ1万5000km2で、おおむね日本の岩手県と等しい[6]。面積比では「ヨークシャー」はイングランドの国土の約12%を占めている。この割合を日本に当てはめると九州全域と四国の半分を合わせたものに相当する[注 1]。ヨークシャーの人口規模(約530万・2011年現在[7])はアイルランド、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ニュージーランドなどの国家に匹敵し、アメリカの14の州よりも多い[8]。, 「ヨークシャー」は他の地方と比べて著しく広いため、歴史的に何度も、いくつかに分割して行政などの機能を振り分ける試みが行われてきた。しかしそうした試みは常に議論を呼んできた。19世紀以降、とくに1970年代以降に地方再編が繰り返されており、地方区分の法的位置づけ、名称、範囲などが変わっている。このため厳密な意味での「ヨークシャー」は年代によって違いがある。こうした経緯にも関わらず、「ヨークシャー」は地理・文化の観点で一体の地方とみなされており、古典的な「ヨークシャー」概念は様々な場面で今も用いられている[5][9]。, 一般的に、ヨーク地方は、自然が豊かな地域とみなされている。広大で、大都市のまわりにも、昔のままのカントリーサイドの風景が残されている。ヨークシャー・デイルズ(Yorkshire Dales)やノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)がその典型である[10][11]。ヨーク地方はしばしば「神の恵みの土地(God's Own Country)」と称される[9][12] 。, ヨークシャーの紋章は「ヨークの白薔薇(White Rose of York)」である。これはかつてのヨーク王家の紋章であり、青地に白薔薇の旗がヨークシャーの旗としてよく使われている[13]。この旗は50年ほど使われてきたが、2008年7月29日に正式化された[14]。1975年以来、毎年8月1日は、ヨーク地方の歴史、文化、方言を記念した「ヨークシャーの日(Yorkshire Day)」となっている[15][16][17]。, 「ヨークシャー(Yorkshire)」は、後述するように、「カウンティ」と呼ばれるイギリスの伝統的な地方区分のなかでも最大の面積があり、2位のリンカンシャーと3位のデヴォンシャーを合わせたより広い。この広さゆえに、ヨークシャーは古くから3つの「ライディング」という下位区分にわけられていた。, 日本の文献での訳語は様々である。「ヨークシャー[1]」「ヨークシア[18]」「ヨークシァ」「ヨーク地方」「ヨークシャー県[1]」「ヨーク県」「ヨーク州」などと表記されてきた。古い文献の中には、ふつうの「カウンティ」を「県」、ヨークシャーを「州」と区別して和訳するものもある[19][20]。近年の文献では、「シャー」とつくものは「ヨークシャー」「ヘリフォードシャー」とそのままにし、「シャー」のつかないものに「コーンウォール州」「デヴォン州」としている例もある[21]。, ヨーク地方は、この地方の中心地であったヨークという都市名からその名をとられている。古代ローマ時代の都市名「エボラクム」(Eboracum)が、アングロ・サクソンの古英語「エオフォヴィック(Eoforwīc)」、デーン人(ヴァイキング)風の「ヨルヴィック(Jórvík)」を経て「ヨーク(York)」に転訛したものである[22]。, ローマ人が名付けた「エボラクム」の語源には諸説あるが、「イチイ(ebor)の木があるところ(-cum)」の意味だったとする説が一般的である。このほか、「エブロス族の居住地があった場所」との解釈もあるが、「エブロス族」の名称はイチイの木から来ていると考えられており、いずれにしてもイチイの木が関わっていると考えられている[注 2]。これがアングロ・サクソン人の「エオフォヴィック」に置き換わった際に、「野猪(エオフェル)」と同じ音を持つことから、イノシシがヨークのシンボルになっていった[23][24][25]。, 「ヨークシャー(Yorkshire)」の接尾語の「シャー(Shire)」は、行政上の区域や地域を表す言葉である。もともとはローマ人が去った後イングランド島に入ってきたサクソン人の言葉で、首長や豪族の領地を指す「scir」という語だった。のちに「scir」が転訛して「shire」となった。9世紀後半のアルフレッド大王が各地に王領「shire」を置き、10世紀のエドガー平和王は「州(シャー)」-「郡(ハンドレッド[注 3])」-「十人組(タイジング)」という地方統治の制度を敷いたことで「シャー」が地方区分の基本単位となっていった。「shire(シャー、シア、あるいはシャイア)」は地方ごとの発音の違いがあり、「シャー」/-ʃə/のほか、「シア」/-ʃiə/のように発音されることもある[26]
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