アテネ スパルタ 位置
みなさんは「アレクサンドロス」ってご存じですか?バンドじゃないですよ。彼は紀元前の世界でも有数のメチャすごな王様なのです。前回はエーゲ文明からギリシア世界が確立するあたりまでお話をしました。, ギリシアは「ポリス」という集団をつくって生活していたのでしたね。そしてそのポリスの中でも特に大きな力を持っていた二つ、「アテネ」と「スパルタ」を中心に、アレクサンドロス大王が出てくるまでの流れを見ていきましょう。, まずはアテネです。現在のギリシアの首都でもあるとても歴史のある地域ですね。商工業が発展したことにより、一般市民が経済力を高めました。それにより、市民は武器を買い武装して「重装歩兵」としてアテネのために戦いに参加するようになります。そうすると「自分たちが国を守っているのだから、自分たちも国の政治にかかわりたい!」という意思が芽生え始めます。それまでは貴族が政治を独占していたのですね。ちなみに、「重装歩兵」をいらすとやで検索をかけてみたらすごいのが出てきました。いらすとや侮れませんね。, その後、「ドラコン」という人物が「成文法」という識字可能な市民なら誰でも読める文字で書かれた法をつくり、貴族が法を独占するのを防ぎました。しかし彼の法律はとても厳しかったようです。「悪いことをしたら死刑」ぐらいの極端なものだったようです。こわいですね。, 次に「ソロン」という人物が納税額に応じて市民を階級分けし、段階的に参政権を与える「財産政治」を始めました。これにより参政権も、まだまだ不平等ながら市民に広がっていきました。高額納税者は偉かったんですね。また、前任のドラコンの厳しい法の緩和も行ったそうです。, ここで、「ペイシストラトス」という人物が武力でアクロポリスを占領しアテネの実権を握ります。自らを「僭主」と名乗り「僭主政治」を行います。これは事実上の独裁政治です。しかし、独裁というと聞こえは悪いですが、一定の層からの支持は得ていたようです。また、ペイシストラトスが政治を独占したので、事実上「貴族」と「平民」の差は無くなったといえますね。ここでまた、いらすとやで「僭主」と検索してみたのですが、一件も画像が出てきませんでした。(2020年3月24日現在)いらすとやもまだまだですね。, しかし、その後悪い独裁を行う僭主が続いたようです。そこで「クレイステネス」という人物が「陶片追放」という制度を開始します。これは僭主になりそうな人物の名前を陶片に書き、それを投票して票の多い人物をアテネから追放するという制度です。また彼は、民衆を血筋などではなく居住区によって区分しました。これによって貴族の家系であるメリットが薄れていきました。, 最後に「ペリクレス」というアテネの将軍が、成人男子全員に参政権を与え、アテネの民主政は完成します。この「ペリクレス」の時代がアテネの黄金時代と呼ばれます。転じて、何かにおける黄金時代のことを「ペリクレス時代」と表現することもあるようです。, アテネともう一つ、とても強い力を持っていたポリスが「スパルタ」です。今でも厳しい教育のことを「スパルタ教育」なんていいますよね。その語源になったポリスです。アテネとスパルタの位置は下図のとおりですね。相変わらず雑で申し訳ない。, スパルタでは「リュクルゴスの制」という厳しい制度がとられていました。(「リュクルゴス」はスパルタの王様の名前です。)軍事力を極めて強くなっていったような国ですね。, そんなゴリゴリの武闘派国家だったのでドゥンドゥン他地域を侵略していきます。そうしているうちに、侵略した地域から獲得した奴隷の人数が凄いことになってしまいます。農業に従事していた奴隷を「ヘイロータイ」、商工業に従事していた異民族を「ペリオイコイ」といいますが、これらを合わせた人数がなんとペルシアの男性市民の10倍以上もいたとされているようなのです。自分たちの10倍以上の人間が一斉に反乱なんて起こしたらたまったものではありませんよね。なのでペルシアの男性市民は日ごろからとても鍛えていたというわけなんですね。, 余談ですが、この「ヘイロータイ」と「ペリオイコイ」個人的にすごい覚えにくかったです。なので無理やり「兵老体」と漢字をあてて覚えたり、ちょうど「あつまれ!どうぶつの森」が発売されたぐらいの時期だったので、「ぺりお憩い」と覚えたりました。ぺりお。わかる人にだけ伝わってくれればいいな。, ここで、全オリエントを統一したアケメネス朝の「ペルシア帝国」が登場します。「オリエント」とはある地域から見て太陽の昇る方向のことを指しますが、古代においては主に、古代ローマからみて東の方角の地域のことを指します。英単語にも、「東洋の」という意味の「oriental(オリエンタル)」なるものがありますよね。今の地域で言えばちょうど中東あたりに分布していた帝国です。, そんな広範囲をも支配していたペルシア帝国ですが、ある時領域内のギリシアのポリスが反乱を起こします。これを地域の名前からとって「イオニアの反乱」と言います。さらにこの反乱をアテネが支援したことによって、ギリシア世界とペルシアとの対立が明確なものになってしまいます。大国ペルシアが攻めてくることになったので、アテネはスパルタをはじめとする他のポリスと手を組み、戦争に臨みます。ポリス同士はライバルでもあったのと同時に、同じギリシア人としての民族意識もあったのですね。このギリシア陣営とペルシア帝国との戦争を「ペルシア戦争」と言います。この戦争はなんと50年にも及ぶ長い戦いでした。戦争の内容をここにまとめると内容がとんでもないことになってしまうので、ペルシア戦争の内容についてはまた別の記事でまとめたいと思います。, およそ50年にも及ぶ戦いの末、何とかペルシアを撃退することに成功したギリシア陣営ですが、ここでポリス同士に溝ができてしまいます。まずアテネが「またペルシアが攻めてくるかもしれないから、その時のためにポリス同士で同盟を組んでおこう!」と「デロス同盟」を組みます。これを見たスパルタが「アテネがポリスをまとめてギリシア世界を支配しようとしている」と考え、対抗して同じように他のポリスと「ペロポネソス同盟」を組みます。こうしてアテネとスパルタとの間で「ペロポネソス戦争」が起こります。さらにここに「テバイ」という都市国家が参戦して、ギリシア世界が荒廃していくことになります。, 『オリエントから攻めてきたペルシア帝国が引き起こしたペルシア戦争から数年。ギリシア世界は「デロス」、「ペロポネソス」、「テバイ」の三つに分かれ、混沌を極めていた…!』, ペロポネソス戦争はペルシア側の勝利で終わりましたが、戦争によってギリシア世界は疲弊してしまいます。そこで突如として現れたのがフィリッポス2世が治める「マケドニア」という国です。このマケドニアという国はギリシア人の国でしたが、ポリスをつ作らないなど、他のギリシア人とは違う生活スタイルをとっていたので、周りのギリシア人から格下扱いされていたようです。しかし、虎視眈々と力を付けていたマケドニアは、ペロポネソス戦争の後に「カイロネイアの戦い」でテバイとアテネを破り、「コリントス同盟」という形で傘下に収めます。ちなみにスパルタはこの同盟に加わらなかったようですね。, そしてフィリッポス2世の子供こそがかの「アレクサンドロス大王」です。彼は「東方遠征」を行い、東へ進軍しました。ペルシアをも破り、インドの北西部あたりまで勢力を伸ばします。しかし、そこまで進軍したのを最後に、アレクサンドロス大王は32歳の若さで亡くなってしまいます。ギリシア世界からオリエント世界までに及ぶ広大な帝国を、わずか二代のうちに築き上げました。, ちなみに、フィリッポス2世は私的「名前の『ポ』の違和感が凄い王様」第三位です。二位はベルギーの「レオポルド2世」、一位はこれから現れそうなので空けてます。, ポリス同士結束することで強敵ペルシアを撃退することができたギリシア世界ですが、皮肉なことに衰退の原因になったのもポリス同士の同盟でした。そして新しくマケドニアが頭角を現すことになっていったのですね。ということで今回はここまでです。何か間違いや意見がありましたらコメントをしてくださるとうれしいです。, kasutarisukuさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog ギリシャ(Greece)の地図を掲載しています。詳細な場所を示した地図ですので海外旅行やギリシャ旅行・観光などに役立ちます。グーグルマップ(Google Map)の地図でギリシャや西ヨーロッパを探検。 そして、上記の図において示したように、 こうしたフェイディピデスという名のアテネ軍の使者が走ったと考えられるアテネとスパルタとマラトンという三つの都市の位置関係は、. スパルタは紀元前6世紀末からペロポネソス半島(ギリシア半島の特に西側に位置する半島)の諸都市とペロポネソス同盟を形成しており、その盟主として存在していました。海軍力を背景に勢力を伸ばすアテネを苦々しく思っていたのです。 Powered by WordPress with Lightning Theme & VK All in One Expansion Unit by Vektor,Inc. スパルタとの競争. 地図7の説明. アテネの先進的地位は、ギリシア世界の中心に位置したこと、アクロポリスの砦を擁し防衛に優れたこと、海上交通の便が良いことから享受できたと考えられる。特に第3の点はテバイやスパルタといった内陸の競合相手に対し天与の利点となった。 ブログを報告する. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - スパルタの用語解説 - アテネと並ぶ古代ギリシアの都市国家。歴史時代の公称はラケダイモンという。スパルタの完全市民はスパルチアタイと呼ばれた。ペロポネソス半島に侵入したドーリス人の一部が前 10世紀頃ラコニアに来住し,村落を形成。 | アテネとは対抗心が強く、ペルシア戦争ではむしろペルシア側に協力した。 ペロポネソス戦争 後に スパルタ が有力になると、有能な将軍 エパミノンダス が現れ、その指導のもとで 前371年 、 レウクトラの戦い でスパルタを破り、ギリシアの覇者となった。 アテネ・スパルタ・テーベなどのポリスの動向とマケドニアの覇権について考察する。[準備学習]マケドニアの地理的位置を押さえ,マケドニアとポリスの社会構造の違いを確認しておくこと。 第10回: ヘレニズム世界と東地中海 ポリス社会の一般的特徴を説明したが、特にその歴史が明らかになっているのが、ヘロポネソス半島に位置したアテネとスパルタである。まずはアテネから説明する。 黒海. その後,アテネはシチリア島への遠征に失 敗し,デロス同盟から離反する都市国家も相次いだ結果,スパルタに敗北してデロス同盟 も解散に追い込まれた。 その後,スパルタはアテネに代わってエーゲ海一帯に支配権の確立を目指した。しかし, このデルフィは、フォキダ県の県都でありデルフィ市の中心地アンフィサから南東へ約11km、中央ギリシャ地方の首府ラミアから南へ約47km、ギリシャの首都アテネから北西へ約120kmの場所に位置しています。 デルフィ地図(Map of Delphi, Central Greece Region, Greece) ペロポネソス同盟. この証拠は、歴史上最も有名な2つの都市、スパルタとアテネで発見されました。 ! - 1 - > 両都市ともギリシャに位置していますが、類似点はそこで終わります。同じ国家であるにもかかわらず、スパルタとアテネの市民は異なった意見と信念を持っています。 アテネ・スパルタなどの都市国家(ポリス)など が発達する。 釈迦(シャカ)が生まれ、仏教がおこる。 ギリシアとペルシアが戦争をする。 (ペルシア戦争) ペリクレスの政治でアテネが栄える。 ペルシア戦争(ペルシアせんそう、ギリシア語: Περσικοί Πόλεμοι )は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。 ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である 3章:アテネ. アテネ、オリンピア、クレタ島、コリント、シロス島、スキアトス島、スパルタ、ティノス島、ティラ(サントリーニ島)、テッサロニキ、ポロス島、ミコノス島、リムノス島、ロードス島のホテル予約が … アテネとスパルタの違いはどんな状況が影響したのか? ※リュクルゴスの制がどうしてスパルタには必要だったのか、というヒントを出す。 今回から数回は、80~100字で文を書くのをやめ、 じっくり内容を理解するようにしました。 テクスト中に表象されるギリシアとアテネ、スパルタ、そ してペルシアという4つの差異化された主体位置は、過去の記憶を現在で解釈する方法をイソク ラテスに提供する。その解釈を通じて諸主体の位置に権力関係を埋め込む際に、遂行的な歴史解 古代オリエントからはじまる世界史の中心は西方に移行し、ギリシアが世界史の中心となっていく。はじめて中東全土を支配したアケメネス朝ペルシアは、マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、それ以降ギリシアからローマへと地中海中心の文明の歴史が描かれる。, ギリシア・ローマ文明が世界の中心だったのは、北方ヨーロッパが台頭するまでの期間であった。しかし、その後のヨーロッパ文明の直接の起源となった上、ヨーロッパ文明を通じて世界の歴史や学問、文化に多大な影響を与えたという点で、非常に重要な時代であることは間違いない。, ギリシアの歴史は、ミノア文明、クレタ文明(前期エーゲ文明)、ミケーネ文明(後期エーゲ文明)を経て、都市国家の成立からギリシア人の歴史が始まる。そこで、まずはギリシア文明以前の、エーゲ文明から説明する。, ギリシア文明以前のギリシア世界の歴史をエーゲ文明とまとめて言うが、これはギリシアと小アジア半島に囲まれたエーゲ海を中心とする文明のことである。この地域の人々は複雑な海岸線で交易を行っていたため、隣の街と交易するために近い距離に多数の都市が作られ、文明として発展した。, 文明は気候、風土といった地理的な制約を受けて発展するため、まずは簡単にこの地域の気候から説明していく。, 地中海沿岸はどこも夏が長く乾燥しており、冬はそれほど寒くなく多湿、雨は秋から冬にかけて集中的に降る気候である。地理的には、平野がなく、よって大河もなく、山地が海岸まで迫るような土地がほとんどで、土地は乾燥していて肥沃ではない。これは、オリエントとは大きく異なる特徴である。, こうした地理的な制約から、オリーヴ、ブドウ、イチジク、牧草といった果樹の栽培や、羊、山羊の飼育に適していた。一方、大規模な灌漑農業を行うことはできないため、膨大な人員を使って灌漑工事を行う機会はなく、よって強大な専制君主や被支配される奴隷も生まれなかった。したがって、この地域では独立・自営的な小規模な農業が行われ、王や貴族と平民が比較的平等な共同体が生まれた。, また、陸の交通の難しさから航路を利用した交易が活発になり、海を媒介にする交易が文明の特徴となった。こうした気候や地理的特徴は、その後のギリシアの文明を大きく規定したのである。, 繰り返しになるが、古代ギリシア文明の前にはクレタ文明、ミケーネ文明といういわゆるエーゲ文明が存在した。これらの歴史は、考古学的な発見によって明らかにされてきた。, その発見をもたらした一人が、ドイツ人のシュリーマンであると言われてきた。シュリーマンは、神話上の出来事と考えられていたホメロスの歴史を明らかにしようと考えて独自に発掘調査を行ったのである。シュリーマンは、もともと学者ではなかった。若いころに貧困を味わったものの自ら労働し、困窮しつつもいくつもの語学を収め、商業的に成功した後に、発掘調査を行ってミケーネ文明を発見した。, シュリーマンは「トロイの木馬」で知られるトロイアを発見したと信じたものの、それは実はトロイアより1000年も昔のアナトリア人の遺跡であることが分かっている。, シュリーマンの生涯は、自伝『古代への情熱』で明らかにされている(ただし、シュリーマンの功績については、現在では諸説ある)。, その後イギリスのエヴァンズがクレタ文明を明らかにし、ギリシア人以前にも文明が栄えていたことが分かったのであった。, エーゲ海は、西に小アジア、東・北にマケドニア、南にクレタ島がある陸地に囲まれた海の事である。クレタ文明は、この地域で生まれた文明だった。紀元前3000年ごろ、アナトリア(小アジア)方面から移住してきた青銅器技術を持つ人々が、いくつかの小王国をこの地域に打ち立てたのが、クレタ文明の直接の契機であった。, 彼らの民族は明らかになっていないと思われるが、紀元前1900年ごろにはクノッソス、ファイストス、マリア、カト・ザクロ、ハギア・トリアダなどに宮殿が建設されていることが明らかになっている。, クレタ文明の中心はクノッソスであり、クノッソスは紀元前2000年頃にクレタ島を統一しクレタ島の90の都市を支配したとされている。クレタ文明は、線文字Aを発明したものの、それはいまだに解読されていないし、クレタ文明を作った人々がどの民族なのかもまだわかっていない。, クレタ文明は、豊かな文明を花開かせており、写実的で開放的な海洋文明だったと考えられている。戦いを好まず、王宮には防御壁などもなかった。, 前述のように、この地域の文明はオリエントほどは専制君主の支配が強くなく、地理的特徴から解放的な文明を築いたと考えられる。, 紀元前2000年より前に、小アジア、バルカン半島にインド=ヨーロッパ語族のギリシア人の祖先にあたる人々が移住してきた。この移住時期ややってきた方面には諸説あるが(『地域からの世界史 地中海』28頁)、だいたいこのこの頃に移住してきた人々がミケーネ文明を築いた。, もともと、小アジアからギリシアにかけて先住民がおり紀元前4000年紀には青銅器文化が始まっていた。これをヘラディック文化という。この地でもオリーブの栽培が行われ、また権力者のものと見られる建造物が紀元前2600年頃から生まれている。しかし、この先住民の社会は、移住してきたインド=ヨーロッパ語族のギリシア人によって侵略されたのである。, ミケーネ文明の中心はミケーネやティリンスで、彼らはクレタ文明の人々と違って好戦的で軍事的な特徴を持っていた。そのため、クレタ文明と違って城塞、王宮を築いたことが分かっており、これはシュリーマンによって発掘された。ミケーネはトロイアやクレタも占領した。, ミケーネ文明は非常に繁栄したことが考古学的発見から分かっており、大量の青銅器や武器、陶器、黄金製品などが王の墓から発掘されている。また、ミケーネ人はクレタ人にならって線文字Bを発明したことが分かっており、線文字Bからミケーネ文明の王が巨大な権力を持って支配したことが知られている。, ギリシアの社会は地理的制約から、オリエントのような強大な専制国家にはならなかったが、ミケーネ文明は軍事的性格や権力の大きさから、専制国家に近いものであったと考えられる。, このように強大だったミケーネ文明も、紀元前1300年頃から衰退し紀元前1200年から1100年ごろには、侵入してきたドーリア人や海の民によって滅ぼされていった。かつては繁栄を謳歌したミケーネ文明の人々は文化的生活を失い、周辺地域に四散していった。この混乱の時代は400年も続き、「暗黒時代」と言われる。, なお、こうして四散していったギリシア人の祖先らは方言の違いから分化し、イオニア人、アイオリス人などになった。, こうしてクレタ文明、ミケーネ文明のあとに新たな時代が始まり、やがてギリシア文明へとつながっていく。, 暗黒時代、ギリシアでは何の発展もなかったというわけではない。この時代にすでにギリシアの次の文明が発展する準備が行われていたのである。暗黒時代のギリシア世界には、鉄器の普及、アルファベットの発明などの歴史的な発展があったのである。, それだけではない。この時代の社会は、その後のポリス(都市国家)の成立と密接につながっている。, ホメロス『イーリアス』によると、暗黒時代のギリシア世界では、王は強力な権力を持たず貴族らの有力者が戦闘を担い、一族を率いていたとされている。人々は移住する生活の中で軍事的な強さを持つ貴族らに率いられていったが、一方で貴族の裁判で判決を下す力は持っていたようだ。, ミケーネ文明から移動してきた一族らは、紀元前8世紀ごろになるとギリシア、小アジア西岸あたりに、貴族の指導のもとアクロポリス(城山)を中心に壁を築き、集住(シノイキスモス)するようになる。これたポリスのはじまりである。丘の上に宮殿、ふもとにはアゴラ(政治や経済の場)が作られた。, さらに人口増加、土地不足、商業交易野必要性から植民活動を展開し、地中海沿岸に植民市を建設していった。その植民市は小アジア、黒海沿岸、北アフリカ、南フランスなど広範囲に及び、下記のような有名な都市も建設したのである。, こうしてできたポリスでは、政治参加できるのは男子市民で市民の多くは奴隷を所有していた(奴隷は市民ではないため政治参加できない)。貴族と平民の違いはあったものの、ともに自由民と言われ市民は政治参加が可能だった点で、オリエント的な専制国家とは異なる。ギリシア人は市民=戦士の共同体としてポリスそれぞれで独立した意識を持っており、宗教的にもポリス市民は共同意識を持っていた。それは、古代オリエント社会で都市ごとに守護神が信仰されたのとも共通する。, とは言え、ギリシア人は都市国家ごとの共同体意識だけでなく、ギリシア人としての意識も強く持っていた。ギリシア人は自分たちを「ヘレネス」と呼び、一方で異民族は「バルバロイ」といって差別していたのである。, ギリシア(ヘレネス)人同士は信仰や慣習について共通したものを持っており、ギリシア人はオリンポス12神の信仰や、デルフォイの神託(アポロン神に神のお告げを聞く)を祭祀として守っていた。また、オリンピア競技(ゼウス神にささげる)などの文化を共有し、仲間意識を持っていたのである。, ギリシア人同士の意識が生まれる一方で、異民族差別は行われた。同じギリシア人同士は「ヘレネス」というものの、異民族は「バルバロイ」と言って区別した。, こうして成立したポリス社会は、それまでの他の文明社会とは異なる特徴を持つようになった。, それは、貴族の権力の強さや、戦時には貴族が自ら戦いの中心となったこと、商業が活発に行われたことなどである。貴族が強い権力を持っていたのは、彼らが自分で武器を持ち、市民を守るために戦いの中心になったからである。, しかし、商業の発達に伴って経済活動が活発になり、平民の中に貧しくなるものと富裕になるものが生まれていった。富裕になった者は、自ら武器を取得して戦いに参加することができるようになった。また、こうした背景から戦闘方法も変わり、一騎打ちではなく重装歩兵密集隊(ファランクス)という戦法が取られるようになった。, こうして、平民らはさらに戦士としての仲間意識を強め、また自分たちも戦士として市民を守っているという意識から政治参加を求めるようになる。こうした背景から、古代ギリシアでは民主主義的な政体が生まれていったのであった。, 古代ギリシアにおける政治社会の形成を見るには、スパルタ、アテネという主要なポリスについて理解する必要があるため、これから説明する。, ポリス社会の一般的特徴を説明したが、特にその歴史が明らかになっているのが、ヘロポネソス半島に位置したアテネとスパルタである。まずはアテネから説明する。, アテネはもともと王制だったが、貴族の勢力が台頭したことから王政から貴族制に移行した。貴族制のもとではアルコンと呼ばれる役人が選ばれて統治(任期1年)し、貴族が政治、軍事職を独占する時代が続いた。, しかし、貴族の政治、軍事職の独占の一方、商工業の発展によって富裕な市民が生まれ、前述のように重装歩兵戦術が生まれたことで平民も軍事参加して地位を高め、政治参加を求めるようになった。したがって、貴族と対立するようになる。こうして、徐々に貴族政から民主政が求められるようになっていく。, 貴族が権力を独占していることから、まずは貴族の権力を抑制する必要があった。そこで、紀元前7世紀にはドラコンが現れ、貴族らの慣習法を成文法にし貴族の法、政治の独占を防ぐ仕組みを作った。, 一方、アテネの内部では商工業の発展に伴う平民の格差が問題化するようにもなった。紀元前6世紀はじめごろ、貨幣経済の浸透という要因もあり、借財によって自由を失う農民(ヘクテモロイ)が登場した。中には奴隷化する者すらいた。, 奴隷化した市民を政治参加させるわけにはいかない。そこでアルコンとなったソロンは、市民市民を4段階に分け、財産の多少で参政権を与える、負債を帳消しにして債務奴隷を禁止する、といった財産政治を行った。, このように、紀元前6、7世紀頃のアテネでは貴族と平民の対立はありつつも、平民にも一定の自由や政治参加が認められつつあったのである。, ドラコンによる成文法の成立やソロンによる改革もあったが、貴族と平民の対立は緩和させるどころか激しくなっていき、貴族のペイシストラトスは紀元前6世紀、中小農民に保護的な政策を行い、農民たちの支持を得て貴族政を廃止し、独裁政治を行った。これを僭主政と言う。僭主政とは、非合法に政権を取り独裁者として暴君的になることを言うが、アテネの僭主政は30年以上続いた。ペイシストラトスは、中小農民の保護策だけでなくアテネでの神殿の建設や宗教的祭祀を盛んに行うなどの政策も行った。, ペイシストラトスの子も独裁を行ったが追放され、紀元前508年頃にはクレイステネスが民主政治の基盤を作った。平民の支持を得て民主的な改革を行い、僭主の出現を防ぐために逆投票し、追放する人を選ぶ陶片追放(オストラシズム)を行ったことで知られる。, この頃、アテネは対外的には他のポリスに支配権を及ぼすようになっていたが、国内では引き続き民主的な改革が進められた。, クレイステネスの後、紀元前5世紀ごろはペリクレスが登場し、ペリクレスがアテネの直接民主政を完成させたと言われている。ペリクレスは、成年男子市民が全員参加する民会で政治を運営する、将軍職以外の役職はくじで公平に選ばれる、といった民主政治を完成させた。, とはいえ、現代の民主政治と同じだったというわけではない。政治参加できるのは参加できるのは貴族と平民のみ(合わせて市民)であり、子ども、女性、奴隷、外国人は参加できなかったのである。貴族制からは大きく変化したし、オリエントのような専制政治と比べればまったく異なる政治体制ではあるが、すべての人に権利が認められていたわけでは当然なかった。, このように、アテネは途中僭主政を挟みつつも、貴族制から民主政治へと変化していくとともに、対外的には支配を及ぼすようになっていったのであった。, そもそもスパルタは、紀元前1000年ごろにドーリア人がヘロポネソス半島の先住民を侵略し、ポリスを作ったのがはじまりであった。スパルタ人は少数だったが、広く侵略し複数の民族を支配する必要があったことから、厳しい軍事国家となった。スパルタの軍国主義的規律は、リュクルゴスという立法者によって作られたと考えられている。, スパルタの社会は、スパルタ人のみが市民として認められ、彼らは完全に支配者だった。王もいたものの貴族政であり、市民は政治と戦闘のみを担い、農業などは隷属農民に行わせた。スパルタ人は支配した民族の人口と比べると少数であり、市民5000人に対し、ペリオイコイ(異民族で商工業者)が2万人、ヘイロータイ(隷属農民)が5万人という人口構成だったとされている。, これほど少数の人口で、反乱を起こさないように統治しなければならなかったため、極端な軍事国家となったのである。市民は絶え間なく鍛えており、戦士的な市民意識を持っていた。また、軍事国家であったため文化はすたれ見るべきものはなかった。, まとめると、そもそも古代世界ではオリエントが文明の中心で、西方世界は辺境だった。地中海沿岸部は、広い平地が少ないこと、乾燥地帯であること、海に囲まれていることといった地理的特色から、灌漑農業よりも果実を中心とした農業が営まれ、クレタ文明、ミケーネ文明といった小規模な共同体による社会が中心の文明が形成されていった。クレタ文明の詳細は謎である部分も多いが、ミケーネ文明は線文字Bが解読されており、ギリシア人の祖先の文明であったことが分かっている。しかし、ミケーネ文明も移住してきたドーリア人や海の民らと思われる侵略者によって滅ぼされ、四散する。四散して移住生活を行っていたころの時代を暗黒時代と言うが、この間、ギリシア人らは貴族を中心とした比較的平等な共同体を構成し、そこにはポリス(都市国家)の萌芽があった。ヘロポネソス半島に移住してきたギリシア人の一部はアテネにポリスを築き、民主的な社会を作っていく。一方、移住してきたドーリア人によって作られたスパルタは、侵略の手を広げ反乱を抑えるために強力な軍事国家となり、この2つの国家を中心に、その後の古代ギリシャの歴史が作られていったのである。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. スパルタが中心となって、 ペロポネソス同盟 を組みます。 ペルシア戦争に勝って平和が訪れるかと思ったのもつかの間、 デロス同盟 と スパルタ同盟 のポリス間で対立が起きるようになり、 やがて ペロポネソス戦争 へと発展していきます。 アテネ スパルタがペロポネソス半島内の諸ポリスとの間に結んだ攻守同盟。前6世紀に軍国主義体制を確立したスパルタによって結成され、前5世紀末のペロポネソス戦争ではアテネを盟主とするデロス同盟と戦った。 Copyright © いつまでも修業の身 All Rights Reserved. カスピ海 アテネとプラタイアの重装歩兵とペルシアの大軍との戦い. アテネとスパルタの位置は下図のとおりですね。相変わらず雑で申し訳ない。 おおよその場所です。 スパルタでは「リュクルゴスの制」という厳しい制度がとられていました。(「リュクルゴス」はスパルタの王様の名前です。 スパルタ チーム ホテル - ホステルは、アテネ シティ センター地区のショッピングセンターに直結した場所に位置しています。シンタグマ広場とオリンピアのゼウス神殿は有名な観光スポット。 technology. ペルシャ帝国 紀元前537-440年ごろ. スパルタ市はペロポネソス半島南部、ラコニア県の中心に位置する84.5平方キロメートル、人口約2万人の町です。 町のメインストリートにはフェニックスの並木があり、古代スパルタのレオニダス王の銅像が町のシンボルとして訪れる者の目を引き付けます。 紀元前537-440年(エステル;エズラ;ネヘミヤ) 北. 紀元前431年に。 e。 古代アテネは南部の隣人 - スパルタとの戦争に引き込まれました。 ペリクルはまだ生きていました、そしてそれは紛争の最初の成功した段階を導いたのは彼でした。 そして、 ペルシアの大軍を目にしたアテネ軍は、すぐに、南西に位置するペロポネソス半島の陸軍強国であった スパルタ へと 援軍を求める使者 を派遣することになるのですが、. アテネ: スパルタ: 古代におけるアテネの経済活動は農業、手工芸品、そして海上貿易を含んでいた。 さまざまな産業があります。 アテネの現代農業は衰退しており、経済危機は市内の多くの企業に大きな打撃を与えています。 2008年にアテネは世界で32番目に富める都市に位置し 、UBSの調査では25番目に物価が高い都市 に位置している。 アテネ市の人口は655,780人 (2004年は796,442人) 、市域面積は39 km 2 (15 sq mi) であ … 解説 「スパルタ教育」の実態 「スパルタ教育」とは、軍国主義のもとで、強い市民を育てる手段だった。子供が生まれると、部族員の集まる集会所で検査され、健康と体力に弱点のあるものはタイゲトス山麓の穴に落とされた。 アテネ重装歩兵軍、単独でペルシア軍を撃破!ペルシア戦争最初の激闘。 ペルシア軍のマラトン上陸を先導したのは、アテネから亡命した僭主 ヒッピアスだった。スパルタ軍は到着が遅れ、アテネが独力で … アテネの使者フェイディピデスが走った全長520kmにもおよぶ伝令の旅. スパルタを盟主として「ペロポネソス同盟」を結成しました。「ペロポネソス」とは、スパルタがあった半島の名前です。 紀元前431年、同盟に加盟しているポリス同士の争いをきっかけに、アテネとスパルタが、ギリシアの覇権をかけて、激突しました。 東京大学名誉教授 本村凌二/ペロポネソス戦争はアテネとスパルタという二大ポリスの対立に始まる。20年以上にもわたるこのギリシア「世界戦争」は、ポリス社会にさまざまな衰退をもたらした。スパルタの凋落、傭兵の出現とともに、ポリスの意味は変質していく。
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