ペルシア戦争 ペルシア 敗因
ヘロドトスは、その『歴史』の冒頭に、「ペルシア人のインテリたちは、この争いの原因になったのはフェニキア人である、といっている」と書いている。 ペルシア戦争(ペルシアせんそう、ギリシア語: Περσικοί Πόλεμοι)は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。学者によっては勝者の名を冠してギリシア戦争、ギリシャ戦争、あるいはフェアに両陣営の名をとってギリシア・ペルシア戦争(Greco–Persian Wars)、ギリシャ・ペルシャ戦争と呼ばれることもある。, 戦争の経緯についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料である[1]。プルタルコスは『ヘロドトスの悪意』について、戦争の歴史的事実がヘロドトス個人の戦争観に歪められていると批判している。, ペルシア戦争の直接の原因は、アケメネス朝(以下、ペルシア)の影響力拡大に対するイオニア地方の都市国家群の反発から起こったイオニアの反乱へのアテナイの介入である。, 当時のペルシアは絶頂期にあった。キュロス2世が、紀元前547年に小アジア随一の強国であったリディア王国を併合、ダレイオス1世はトラキア、マケドニア王国を勢力下に置いた。紀元前518年、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼ばれる総督を置き、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島嶼をその支配下に置いた。ダレイオス1世は政治の力点を経済活動に置き、「王の道」を整備するとともに、金貨を鋳造して交易を積極的に推進した。彼の治世においてペルシアは最盛期を迎え、帝国の領土的野心も膨らんだ。こうした情勢下、ギリシア本土の諸都市にペルシアの影響が及ぶのは時間の問題だった。, ギリシア側で主導的役割を果たしたアテナイは、紀元前6世紀 末から紀元前5世紀中期までの政治状況の資料が少ないため判然としないが、紀元前6世紀中期からようやく有力なポリスになり始めていた。小アジアに陶器とオリーブ油を輸出する一方、人口の増加にともなって黒海沿岸から多量の穀物を輸入するようになったと考えられている。, 穀物輸入を容易にするためには、アテナイ近傍のファレロン湾(英語版)(古希: Όρμος Φαλήρου Órmos Falírou[2])の利用が急務であったが、この海域ではアイギナによる海賊行為が横行しており、アテナイとアイギナ、アイギナを保護するアルゴスとの関係は険悪であった。また、政治体制を貴族政から民主制に移行させたことによって、アテナイはスパルタに対抗しうる強力な国家へ成長することに成功したが、同時にスパルタと同盟諸都市に対して警戒心を抱かせることにもなった。北方のボイオティアとも戦争状態にあり、アテナイは文字通り四面楚歌の状況にあった。, この孤立状態を打開するため、アテナイから、おそらくはクレイステネスによって、ペルシアのサルディス総督アリスタゴラスのもとに使者が送られた。アテナイの使者はペルシアとの同盟を求めたが、ペルシアが完全な服従を求めたため、アテナイ民会はこれに反発した。当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に傀儡の僭主を擁立し、彼らを介して内政に干渉するというものであったが、民主制をとるアテナイに受け入れられるものではなかった。また、穀物輸入の交易路にペルシアの影響が及ぶことへの懸念もあったと考えられる。同盟交渉は決裂した。こうした経過を経て、アテナイ民会は、直接的な対立を避けつつも、ペルシアに対して危機感を募らせていた。, 紀元前499年に起こったイオニアの反乱に際しては、アテナイとエレトリアのギリシア勢が同じイオニア方言を語るギリシア人ということもあって反乱軍を支援し、ペルシアを牽制した。, しかし、イオニアの反乱は失敗し、介入はペルシアにとっては内政干渉であり、ギリシア侵攻の恰好の口実を与えることになった。イオニア反乱軍への援助決定の後、しばらくの間はクレイステネスを代表とする対ペルシア宥和派と、ミルティアデスら独立派による激しい議論が起きていたと考えられるが、反乱鎮圧後は、徐々に対ペルシア強硬派が台頭していった。, ペルシアへの対応と権力闘争が絡み合い、アテナイ民会が混乱する中、イオニアを平定したダレイオス1世はギリシア遠征軍派遣を決定し、ペルシア戦争と呼ばれる一連の戦争が開始された。, 紀元前492年、ダレイオス1世は、イオニア反乱軍に荷担したアテナイとエレトリアに対する報復と称して、マルドニオス率いる部隊をギリシアに派遣した。報復というのは口実であり、ギリシア全域の制圧を目論んでいたとされる。歴史家によっては、この時の遠征軍が小規模であった可能性を示し、目的は征服ではなく、威力偵察に過ぎなかったとする。, ペルシア艦隊はエーゲ海北部の海岸線に沿って進み、タソス島を制圧したが、ハルキディキ半島のアトス山のある岬を迂回する途中、暴風に遭遇して大損害を被った。また陸隊も、マケドニアでブリュゴイ族の夜襲を受け、マルドニオス自身が手傷を負ったため、遠征軍は撤退した。, 紀元前491年、ダレイオス1世はギリシアの各ポリスに服従を求め、エーゲ海島嶼部のポリスはほとんどが要求を受け入れた。しかし、当時のアテナイは親ペルシア派と反ペルシア派の反目によって動揺していた上に、かねてから険悪な関係となっていたアイギナがペルシアに服従する意志を示したことを知って、アイギナと紛争状態になった。スパルタも、アテナイに同調する立場をとるクレオメネス1世とそれに反目するデマラトスの2人の王の内紛によって、対応は混乱していた。, 紀元前490年、ダレイオス1世は、要求を呑まない諸都市を攻略すべく、マルドニオスに代わって新たにメディア人の将軍ダティス(英語版)とサルディス総督アルタプレネス (息子)(イオニアの反乱時に総督を努めたアルタプレネス(英語版)の子)を司令官とする600隻の三段櫂船団を派遣した。ペルシア艦隊はエーゲ海を横断し、キクラデス諸島の都市国家ナクソスを陥落させると、エウボイア島に上陸、南端のカリュストス(英語版)を制圧し、イオニアの反乱を支援したエレトリアに侵攻した。, エレトリアはアテナイからの援軍を得たが、親ペルシア派と交戦派の不和による対応の混乱を目の当たりにしたアテナイの援軍は、エレトリアの守備を放棄して帰還した。ペルシア軍の攻撃を受けるとエレトリアも交戦の意志を固め、包囲に7日間抵抗したが、内部の親ペルシア派が城門を開いたため、ペルシア軍に攻略された。, エレトリアを制圧したペルシア軍は、アテナイを追放された元僭主ヒッピアスの助言により、 当時のアテナイの主要港であり、またヒッピアスの父ペイシストラトスの勢力地盤でもあったアッティカ東岸のマラトンに上陸した。アテナイはスパルタに援軍の要請をするとともに、奴隷を伴ってマラトンに展開し、プラタイアからの援軍を得てマラトン平野の南部に位置するヘラクレス神域に布陣した。将軍ミルティアデス率いるアテナイ・プラタイア連合軍は、この戦いで重装歩兵密集陣を駆使してペルシア軍を破り、敵の陸上移動を断念させた。, ペルシア艦隊は、スニオン岬を迂回してファレロン湾に艦隊を展開し、揚陸の動きを見せたが、アテナイ・プラタイア両軍がこの動きを察知してアテナイに移動したため、ペルシア軍は攻めきれず、本国へ撤退した。, マラトンの戦いの勝利によって、親ペルシア派のペイシストラトス家とアルクメオン家の人間は次々と陶片追放され、アテナイはペルシアに対して一貫した政治的態度をとるようになった。また、アテナイ民会は、マラトンの戦いで英雄視されていたにも関わらず、私欲のために国庫に打撃を与えたミルティアデスを告発して厳格な司法権を行使したほか、軍事長官の権威を下げ、将軍職の地位を上げるとともに再任できるようにするなど、強国としての国家体制を着実に整えていった。, ダレイオス1世は、再度侵攻の準備を進めたが、エジプトの反乱とバビロンの反乱で実現できぬまま、紀元前486年 に没した。王位を継いだクセルクセス1世は遠征に乗り気ではなかったが、最初の侵攻の司令官を務めたマルドニオスの説得により、紀元前484年にバビロンを平定し[3]、次いでエジプトを平定すると、ギリシア遠征を決意した。, 紀元前481年夏、クセルクセス1世は王都スーサを発ち、全軍の集結地カッパドキア地方のクリタラ(Kritala)を経て小アジアの拠点サルディスに入ると、ギリシアの各ポリスに使者を送り降服を迫った。これにより、マケドニアやテーバイなどのポリスはペルシア側についた。一方で、ペルシアはアテナイやスパルタには使者を送らなかった。, マルドニオスやメガビュゾスらの指揮するペルシアの遠征軍は、ヘロドトスの記述によれば歩兵170万、騎兵8万、戦車隊など2万に加え水軍51万7000以上(これは三段櫂船1207隻、その他の船舶・輸送船3000隻からなる)これらにヨーロッパ各地からの援軍を加えた総計は528万3000以上という大規模なものであったという。しかしこれは明らかに誇張された数字であり、兵站学上も当時これほどの大軍勢を維持することは不可能と考えられるため、実際に動員された兵力については諸説ある。少なく見積もった説で5万程度、多く見積もった説で100万程度と開きが大きいが、いずれにせよギリシア側の兵力、船舶をはるかに超える規模であったことは間違いない。, 紀元前481年秋には、ペルシア軍の再度の来寇がギリシア各地に伝わり、ペルシアの脅威に疎かった諸国も危機を認識するに至った。アテナイの政治家テミストクレスは、スパルタに働きかけてイストモスで会議を開くことを決め、抗戦の意志を固めたポリスの代表者を招いた。ここで、ポリス間の紛争の即時終結(特にアテナイとアイギナ間の紛争処理)、サルディスへのスパイ派遣、ケルキュラ、シチリア島、クレタ島に対する援軍要請が宣言された。紛争停止とスパイの派遣はただちに実行され、ここにギリシア連合と呼べる体制が整った。援軍の要請は、シチリア島のシラクサがカルタゴの脅威により援軍派遣を断念(第一次シケリア戦争)、反スパルタ主義を貫徹するアルゴスが中立、ケルキラは趨勢を見極めるために中立、クレタ島もデルポイの神託に従って中立など、空振りに終わった。また、ペルシアの攻撃を真っ先に受ける位置にあるポリスなどにはペルシア側につくものもあり、必ずしもギリシア人が一枚岩になったわけではなかった。, 紀元前480年5月頃、ギリシア諸都市連合は再びイストモスで会議を開き、破竹の勢いで侵攻を進める30万のペルシア軍に対して抗戦か降伏かで揺れていたテッサリアの親ペルシア派を威嚇するため、テンペ峡谷に約1万の兵を派遣した。しかし、テンペ派遣軍はマケドニア王アレクサンドロス1世の使者にペルシア軍の強大さを説かれて撤退、見放されたテッサリアはペルシア側についた。テンペ後退後、再びイストモスで会議が開かれ防衛策が議論された。ペロポネソス半島諸国はコリントス地狭での防衛を提案したが、アテナイなどが反対した。結局、ギリシア連合軍の作戦立案を担当したアテナイのテミストクレスは、テッサリアからアッティカに抜ける幹線路にあるテルモピュライ(テルモピレー)の山間の隘路とエウリポス海峡への入り口にあたるアルテミシオン沖に防衛線を築くことでペルシアの侵攻を食い止める作戦を立て、合意した。, 紀元前480年8月、ギリシア連合軍はテルマ(テッサロニキ)から南下してきたペルシア軍と両地(テルモピュライおよびアルテミシオン)で衝突した。スパルタが主力となって防衛にあたったテルモピュライの戦いでは、現地集結後に迂回路の存在に気付いたスパルタ王レオニダス1世が諸ポリスの軍勢を帰国させた上、300人の手勢だけで時間稼ぎをしたが、やがてペルシア側についていた地元民がペルシア軍に迂回路の存在を教えたために挟みうちの状況となり、レオニダス1世の奮闘むなしく防衛線を突破された。テルモピュライでの敗退により、ギリシア軍はアルテミシオンからの撤退も余儀なくされ、日和見的な立場をとっていたボイオティアの各ポリスは親ペルシアの意志を明確にし、これに追従するかたちでカリュストス(英語版)、テノス(英語版)などアッティカに隣接するポリスにも親ペルシアの動きをとるものが現れた。, ペルシア軍の接近を受け、テミストクレスの布告により、アテナイ住民はトロイゼン、アイギナ、サラミスに避難した。しかし、避難の費用は自己負担だったため、財力のない貧民と一部の聖職者、あるいはデルフォイの神託(「木の壁によれ」)を誤って解釈した者はアテナイのアクロポリスに籠城した。ペルシア軍の前にアクロポリスは陥落し、アテナイは完全に占領され、農地は蹂躙された。, アテナイの要請で避難の支援のためサラミス島に集結していたギリシア連合は、次の防衛策を検討した。ペロポネソス半島の諸国は、アテナイが制圧された以上、アッティカ半島の防衛は不要と考え、イストモスに防衛線を築くことを主張した。しかし、テミストクレスは断固反対し、敵味方双方を篭絡して、なし崩し的にサラミス水道での海戦にこぎつけた。ギリシア連合艦隊をまとめあげることに成功したテミストクレスは、地の利を生かしてペルシア艦隊を破った。, 紀元前480年のサラミスの海戦の敗北によってクセルクセス1世は戦意を喪失し、マルドニオスに後を託し、自身はバビロニアの反乱を鎮めるため帰国した。陸上部隊はギリシアの総司令部のあるイストモスのポセイドン神殿に入ったが、ギリシアの防衛線に攻撃は行わず、テッサリアからマケドニアまで退いた。, 紀元前479年、マケドニアで体勢を整えたマルドニオス率いるペルシア軍は、途上、テッサリアで兵を補充しつつ再びアテナイに入った。彼は、各地に避難しながら未だ機能を保っていたアテナイ民会に再び服従を要求したが、アテナイ人は逆上して使者を撃ち殺した。このためマルドニオスはアテナイ市街を完膚なきまでに破壊し尽くし、騎馬戦に有利なテーバイまで後退した。これに対して、スパルタをはじめとするペロポネソス諸国の連合軍は、コリントスを経てキタイロン山麓に陣を敷き、アテナイ、メガラの軍と合流してペルシア軍の出陣を待った。, マルドニオスはギリシア軍の動揺を誘うため騎兵隊を差し向けたが、メガラ軍とアテナイ軍は騎馬部隊を破って戦意高揚し、全軍が山地を下ってプラタイアに進軍した。ギリシア連合軍約11万 は、スパルタの重装歩兵密集陣の活躍によってペルシア軍を敗退させ、ペルシア側の総司令官マルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。ペルシア軍はテーバイに逃げて籠城したが、ペルシア増援部隊はプラタイアから敗走する自軍を見てテーバイを放棄し、テッサリアからマケドニアを経てアジアに撤退した。戦いに勝利したギリシア軍はテーバイ攻略にとりかかり、ペルシア兵とテーバイ兵を殺戮した。, プラタイアの戦いと同じころ、小アジアのミュカレの戦いでギリシア側は決定的勝利をつかみ、ペルシア勢力を北部はヘレスポントス(黒海)まで、南部はキプロスまで押し返した。, 紀元前465年にクセルクセスが側近アルタバノス(英語版)に暗殺された。しかし、その後もさらに小競り合いが長く続いた(エウリュメドン川の戦い、第一次ペロポネソス戦争、Battle of Pampremis、Siege of Memphisなど)。両者ともに決定的な戦果を上げることなく、紀元前449年に和睦(カリアスの和約)が成立して戦争は終結した。, この戦争は「自由」のための戦いと称され、戦後は、自由を謳う詩や祝祭に沸いた。スパルタ、アテナイ、コリントスなどギリシア連合31ヶ国は、連名によってデルポイに3匹の絡まる蛇の円柱を建立したが、これは後にコンスタンティノポリスのヒッポドロームに移され、今日もその一部が残っている。このように、ペルシアの遠征によって結束したかに見えたギリシアであったが、水面下では有力ポリス間の覇権争いは継続しており、特に戦後はアテナイとスパルタの権力闘争が表面化した。, イオニアからペルシア勢力を駆逐したアテナイは、一連の戦争の中で陸軍国から強力な海軍力を擁する海上貿易国家へ成長することに成功し、アイギナを抑えてエーゲ海東海岸を勢力下に納め、全盛時代を迎えた。ペルシア戦争のためにアテナイ主導で締結されたデロス同盟では、各ポリスから一定の資金が軍資金として集められたが、経済的結束によって同盟関係は強化されつつも、実態としてはアテナイによる同盟諸ポリスの支配であった。事実、紀元前470年頃に同盟を離脱したナクソスは、アテナイ軍に包囲されて強制的に同盟に再加入させられ、また、同盟国からの徴収金はアテナイの国庫に流用されるようになり、後には金庫そのものがアテナイに置かれアクロポリス再建にも使用された。, これに対して、ペルシア戦争に重要な貢献のあったスパルタなど農業中心のポリスには戦勝による見返りがほとんどなかった。交易活動が盛んなコリントスやアイギナもアテナイの勢力に圧倒された。さらにアテナイがテッサリア、メガラに次いでスパルタの敵対国アルゴスとの同盟を結んだことによって、スパルタとアテナイとの間に決定的な軋轢が生じ、エーゲ海交易の主導権を握られたコリントス、アイギナとともにスパルタはアテナイに敵対するに至った。この対立が後のペロポネソス戦争に発展していく。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ペルシア戦争&oldid=82031754, Philip de Souza『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing. 局所的な戦いではペルシア側の勝利もあったのですが、 ペルシア戦争 全体で見た場合は ギリシア側の勝利 となっています。あれだけ強大なオリエントの専制的支配体制から独立と自由を守り切ったことでポリスは自信をつけました。 紀元前480年、アテネ沖のサラミスの海戦で、海戦が得意なギリシアにペルシアは敗北します。 以後、ペルシアの覇権は急激に失われ、紀元前4世紀後半には、ギリシア勢力を率いたアレクサンドロス大王がペルシアに攻め入り、これを滅ぼしました。 ギリシア世界は発展と共に、東のオリエント諸国と交易を始め、さまざまな交流が行われるようになります。 しかし、この時オリエントで� ペルシア戦争(第2次) の前490年、 アテネ に近いアッティカ半島の東岸のマラトンに上陸した ペルシア帝国 の ダレイオス1世 が派遣した第2回遠征軍と、迎え撃ったアテネを中心としたギリシアのポリス連合軍との戦い。. ペルシア戦争 ~ギリシアとアケメネス朝 戦争の影響と戦後の参政権拡大~ 著者名: エンリケ航海王子: ツイート: マイリストに追加: 巨大帝国との対立. 「ペルシア戦争」を記した歴史家ヘロドトスは随所で彼女をほめたてた。「彼女の戦術はどれも優れ、敵の意表をつくものばかりであった。戦場における瞬時の判断力、統率力は天賦のものがあった。ギリシア軍を悩ました最強の戦士、アルテミシアこそまこと戦の女神と呼ばれるにふさわしい 紀元前5世紀に、当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、ギリシアの都市国家のあいだでおこなわれた「ペルシア戦争」。世界史の授業でも絶対に登場する重要な争いですが、一体どんなものだったのでしょうか。この記事では、戦争の原因、第1次から第4次までの流れ、結果とアテネの民主政などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。, 紀元前492年から紀元前449年にかけて発生した「ペルシア戦争」。当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、アテネやスパルタを中心とするギリシアの都市国家連合の戦いです。, 約50年間で、ペルシアは4度のギリシア遠征をおこないました。ペルシア海軍の主力を担っていたのはフェニキア人で、地中海の交易権を巡るギリシアとフェニキアの戦いという一面もあります。, 紀元前479年の「ミュカレの戦い」でギリシアが勝利したこと、紀元前465年にペルシア王のクセルクセス1世が暗殺されたことから、ペルシア戦争はギリシアの勝利。紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれて終結しました。, しかし敗北を喫したとはいえ、ペルシアが滅びたわけではありません。その後もペルシアはギリシアへの介入を図り、アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の戦いである「ペロポネソス戦争」が勃発する一因となります。, 最終的にアケメネス朝ペルシアが滅びたのは、マケドニア王国のアレキサンダー大王がおこなった「東方遠征」にて、首都であるペルセポリスが破壊された紀元前330年でした。, ちなみにペルシア戦争に関する資料はほとんど現存しておらず、ペルシア戦争について記されているのは同時代を生きたギリシアの歴史家、ヘロドトスの著作『歴史』のみ。そのため帝政ローマ時代の著述家プルタルコスのように、ヘロドトス個人の戦争観で事実が歪められていると批判する声もあります。, ペルシア戦争の原因となったのが、紀元前499年から紀元前493年にかけて起こった「イオニアの反乱」です。これは、ミレトスを中心とするイオニア地方の都市国家が、アケメネス朝ペルシアの支配に対して起こしたもの。, アテネなど、ギリシアの都市国家が反乱を援助します。しかし紀元前493年にミレトスが陥落して、反乱は失敗。結果的に、ペルシアがギリシアに侵攻する口実を与えることになってしまうのです。, 紀元前492年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は反乱へ介入したことに対する報復として、ギリシア遠征軍を派遣。ペルシア戦争が勃発しました。, 大きく4つに分けることができる「ペルシア戦争」。それぞれの流れを見ていきましょう。, 紀元前492年に、ペルシアのダレイオス1世がギリシアへ遠征軍を派遣しました。海と陸から侵攻しましたが、海軍が暴風雨によって壊滅的被害を受けたため、大規模な戦いは起こらないまま終結します。, 紀元前490年におこなわれたペルシアの本格的なギリシア侵攻で、迎え撃つアテネとの間で「マラトンの戦い」が起こります。アテネの重装歩兵密集戦術が奏功して、ギリシア軍が勝利しました。, ちなみに、母国の勝利を伝えようと、ひとりの青年がマラトンからアテネまで約40kmの道のりを走り抜けたことが、陸上競技マラソンの由来だといわれています。, 紀元前480年におこなわれた、ペルシア戦争最大の戦い。ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世が自ら大軍を率いてギリシアに侵攻しました。, 「テルモピュライの戦い」では、20万人ものペルシア軍に対し、ギリシアのスパルタ軍はたった300人で対抗したそうです。奮戦虚しくスパルタ軍は全滅し、ペルシア軍はアテネにも攻め込むなど勝利を目前としていました。, しかし「サラミスの海戦」で「三段櫂船」を操るアテネ海軍が躍進。ペルシア軍は撤退を余儀なくされるのです。, 紀元前479年におこなわれました。「サラミスの海戦」で敗れたクセルクセス1世は、戦意を喪失してペルシアに帰国。残された軍が体勢を立て直し、再度アテネへの侵攻を目指します。, そんなペルシア軍を、アテネとスパルタの連合軍は、陸上では「プラタイアの戦い」、海上では「ミュカレの海戦」で迎撃し、勝利しました。ペルシアによるギリシア遠征は失敗に終わることになります。, ただその後も交戦状態は続き、小規模な戦いはたびたび生じていました。正式にペルシア戦争が終結したのは、紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれた時になります。, ペルシアの「専制政治」に対抗して、アテネを中心とするギリシアの都市国家が「自由」を求めたペルシア戦争。戦後のギリシアでは、自由を讃える歌や祝祭が大いに流行しました。, その一方で、有力な都市国家間での覇権争いが起こり、特にアテネとスパルタの対立が激化することとなります。, ペルシア戦争を通じて大きく勢力を伸ばしたアテネは、強力な海軍を有して海上貿易の覇権を掌握しました。アテネを盟主として結成されたデロス同盟には最盛期で200もの都市国家が参加をし、経済的にも軍事的にも最盛期を築きます。, さらに政治では、「民主政」が全盛期に。市民が直接投票をして法律や法案の決定に関わる直接民主制と呼ばれるものです。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、外国人居住者や女性、奴隷に投票身分はありませんでした。実際に投票権を持っていたのは、成人人口の30%未満だともいわれています。, もともとアテネでは、出身や財産、土地からの収穫高に応じて市民が4つの等級に分けられていました。上位2階級が「貴族」、下位2階級が「平民」です。平民たちはペルシア戦争に大きく貢献。勝利を決定づけた重装歩兵や、三段櫂船の船の漕ぎ手を主に務めたのは彼らでした。, これを受けて戦後は、平民たちの発言権が強まっていきます。やがて貨幣経済が発達すると、貴族と平民の間に対立が生まれ、平民は徐々に権利を獲得していくように。そして紀元前508年に、民会を中心とするアテネ民主政が成立しました。, ペルシア戦争、その後のペロポネソス戦争、そしてペルシアが滅びるきっかけとなるアレキサンダー大王の遠征を中心に、古代ギリシアでおこなわれた地中海の覇権を巡る争いを取りあげた作品です。, 「マラトンの戦い」や「サラミスの海戦」など、それぞれの戦争のなかのひとつひとつの戦闘についても詳細に解説。わずか50ページほどとコンパクトにまとまっていて、読みやすいのが魅力でしょう。古代ギリシアについて学びたい人にはうってつけの一冊です。, 「歴史の父」といわれるヘロドトスが記した『歴史』。翻訳を担当した松平千秋は、日本西洋古典学会の委員長を長年務めた古代ギリシア文学者で、本作だけでなく多くのギリシア文学の翻訳を手掛けてきました。, 本書は上・中・下の3巻で構成されていて、ヘロドトスが各地を旅し、実際に見聞きした旅行記としても楽しむことができます。ペルシア戦争を中心的に記しているのは下巻です。, 歴史書というと堅苦しいイメージを抱く人もいるかもしれませんが、歴史に名を残す英雄たちが悩み、笑い、戦う様子は、まるで小説を読んでいるような臨場感。2000年以上も前に書かれたとは思えないほど、当時の人々の息吹を身近に感じることができる一冊です。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 古代ギリシアとペルシア戦争―500BC‐323BC 東地中海の攻防 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ). 前480年 にペルシア帝国の クセルクセス1世 が自ら大軍を率い北方から ダーダネルス海峡 をおし渡り、ギリシアに侵攻して始まった。. ペルシア戦争(第3次). 対ペルシア戦勝後も本質はペルシアを撃退したというだけで、ペルシアは消えたわけではなくギリシアに影響を及ぼします。戦後もギリシアではポリス同士が抗争したり(ペロポネソス戦争)、ペロポネソス戦争に負けたアテネがなんとペルシアに援助を求めたり、南部ギリシアはまとまらず、疲弊していき … ①みんな大好きペルシア戦争 ネットでよーく解説が入っているペルシア戦争を解説していく。ここら辺は高校で最初のテストの範囲で、しかも最初の具体的な戦争の解説が入るのでみんななんとなく知っている。 ②きっかけ ペルシアの領域内にギリシャ人の植民市があった。 ペルシアの拡大には元々危機感を持っていましたから、利害が一致。 アテネはミレトスへの支援を決定します。 ペルシア戦争とアケメネス朝の滅亡. ギリシアとアケメネス朝の位置関係はこんな感じです。. 戦争のきっかけは、アケメネス朝ペルシアが、地中海を越えたエリアに勢力を拡大しはじめたことでした。 ペルシア戦争前の時点で、既にギリシアより北のマケドニアや、エーゲ海の東側の島々も支配下に置いていましたので、「ここに近い港が欲しいな……おっ、近くにあるやんけ」というわけです。 なぜ戦争がおこったのでしょうか?. ペルシア軍が前480年にギリシア本土に再び侵攻した戦争。. これがペルシア戦争最大の決戦となったサラミスの海戦(b.c.480)である。 陸上でも プラタイア (B.C.479)でアテネ・スパルタ連合軍がペルシア陸軍を敗り、同年のイオニアのミカエレ岬の戦いでも勝って、 ギリシア軍の勝利が確定 した。 アケメネス朝ペルシアについて知りたい人はコチラ. ギリシア側がミルティアデスの指揮するアテネの 重装歩兵密集部隊 の活躍で勝利した。. ペロポネソス戦争の原因. ペルシア戦争(ペルシアせんそう、ギリシア語: Περσικοί Πόλεμοι)は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。学者によっては勝者の名を冠してギリシア戦争、ギリシャ戦争、あるいはフェアに両陣営の名をとってギリシア・ペルシア戦争(Greco–Persian Wars)、ギリシャ・ペルシャ戦争と呼ばれることもある。 テルモピュライの戦いではスパルタ陸軍が敗れたが、サラミスの海戦でアテネ海軍が勝利した。. 対するペルシア軍は6400人の死者を出し、艦艇7隻が拿捕されました。 マラトンの戦いでのギリシャ連合軍の勝因 ですが、上記の奇策以外に、敵軍のペルシャ帝国軍が長距離を遠征してきた疲労、大兵力を展開するのに適さない平地の少ない土地での戦闘など、いくつか考えられます。 ペルシア戦争は、紀元前499年から紀元前449年にかけ、ギリシア諸ポリスの連合とペルシア帝国との間で3度に渡って行なわれた戦争です。イオニア地方、タソス島、エレトリア、キクラデス諸島、アッティカ半島マラトン、テルモピュライ、アルテミシオン沖、サラミス島近海などギリシア各地が戦場になった大規模かつ長期的な戦いになりました。 ペルシア戦争で起きた『マラトンの戦い』はマラソンの語源? 絶体絶命であった「マラトンの戦い」で、ギリシア軍はどのようにしてペルシア軍に勝利したのでしょうか? 古代の戦争で有名と言えばペルシア戦争! その戦争の一部であった戦いを、分かり易くまとめてみました! 少しギリシア周辺をズームして見てみましょう。. 前480年クセルクセス1世指揮下のペルシア軍はトラキアから南下,テルモピュライの戦でギリシア軍を撃破したが,海軍はサラミスの海戦で大敗,前479年プラタイアイの戦,ミュカレの海戦でもペルシア軍は敗れ,遠征は完全に失敗した(第2回ペルシア戦争)。 だが、戦争への参加にもかかわらず、アルキビアデスやクリティアスを始めとする彼の弟子や関係者が戦争とその後の混乱の原因となったことで民衆の反発を招き、後の刑死の一因となった。 アテネの繁栄と衰退の原因で押さえておきたいポイント ※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。 ペルシア戦争 ・紀元前500年から紀元前449年にかけて、アケメネス朝ペルシアとポリス諸都市からなるギリシア連合 ペルシア戦争が起こってしまった経過にはいろいろな説がありますが、直接の原因はこのアケメネス朝ペルシアに、イオニア地方のポリスたちが反乱を起こしたからでした。 ペルシャ戦争がイラスト付きでわかる! 狭義でのペルシア戦争は、紀元前6世紀~5世紀ごろにギリシャ諸国とアケメネス朝ペルシア帝国との間で繰り返された戦争を指す。 概要 現在ペルシア戦争として知られる戦役の記録は、古代ギリシャのヘロドトスの記した「歴史」が知られている。 第2回ペルシア戦争でアテネ陸軍が勝利. ネソス戦争はペルシアの資金援助を受けたスパルタが勝利した。コリントス戦争は,ペルシ アが小アジアからスパルタ軍を撤退させる外交手段として,ギリシア本土における反スパル タ勢力を支援したことにより勃発し,最終的には,スパルタがペルシアに譲歩することに よって終結した。海 こうして勃発したのが、ペルシア戦争です。 ・マラトンの戦い(前490年) ・サラミスの海戦(前480年) ペロポネソス戦争は、紀元前431年~紀元前404年に、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア全域を巻き込んだ戦争です。. ペルシアの敗因は軍に多民族混成であるための脆さを孕んでいた事と内応者出現に頼りすぎたためで、ギリシアは統一戦線を築くことに一応の成功を収める事でそれに付け入る事ができたのであろう。 その後もペルシアはギリシアへの介入を図り、アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の戦いである「ペロポネソス戦争」が勃発する一因となりま … ペルシア戦争以降も,ペルシアの存在は,ギリシア内部の国家間関係に影響を与え続けた。 これについて,アケメネス朝ペルシアの滅亡までを視野に入れて論じなさい(150字程度)。 問題 〈memo〉 41 100 150 170. ペルシア戦争は、オリエントを支配していたアケメネス朝ペルシアとギリシア人の間におこった戦争 です。.
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